階段を上がるとまず掘り下げられた㉔スタディウムがあった(『ローマ古代散歩』の平面図より)。
それを右に見ながら南へ。正面に見えるのはその皇帝観覧席
ふと振り返るとコロッセオが見えた。
先ほど下から見上げた㉕セウェルスの浴場の遺構の上までやってきた。
浴場の柵の端から見下ろすと、芝生には説明板の四角い影があった。浴場といえば、ポンペイの遺跡などではドームやヴォールト天井のかかった大きな空間のある建物を思い浮かべるが、後2世紀末ともなれば、構造が違っていたのかも。
南を向くと、㉖セウェルスのアーケードが三重アーチ構造でがっしりとした姿を見せていた。下で見たよりもよく残っている。こんなにすごい構造体を造ってまで必要だったテラスってどんなもの?
この辺りに説明板があった。適当に訳すと、温浴室は2列のヴォールト天井があり、マクセンティウス期に建造されたと信じられてきたが、354年のものであることが明らかとなった。浴場の建物は大きな湯船、水路そして空気と水を暖める装置であるという。
右下に大きなヴォールト天井が1つ見えている。これが㉗マクセンティウスの浴場に当たるのだろうか。
この浴場の周辺はセウェルスの建物群(Severan buildings)という立て札があった。それはセプティミウス・セウェルス(193-211年)の建物群という意味だと思っていたが、フォロ・ロマーノ入口横の売店で買った『ROMA』は、ドミティアヌス帝の宮殿であるドームス・セヴェリアーナという。ドミティアヌス帝は在位81-96年なので、もっと古い時代の建物群がここにあったことになる。
向こうにはスタデウムの皇帝観覧席が見えているが、これもドミティアヌス帝期のものらしい。
この先にも建物の遺構がある。セウェルスのアーケードの上のテラスと同じ並びだが、いったい何だったのだろう。
行ってみると階段があって、何もない四角い部屋の向こうにもテラスがあるらしい。ひょっとするとチルコ・マッシモの観覧席だったのかも。
階段のところに鎖がかかっているのでテラスには出られなかった。
『ローマ古代散歩』の見返し後に帝政末期のローマ都市模型(エウルのローマ文明博物館蔵)の写真があった。パラティーノの丘を見学した後の今見ると、細部が理解できる。この建物はチルコ・マッシモに張り出しているので、チルコ・マッシモの競技を楽しむ皇帝観覧席だろうと思う。
『roman・forum・palatine・colosseum・guide』は、セプティミウス・セウェルスによって建立された広大なテラスは、傾斜のある地区への宮殿の拡張だ。そこには下方のチルコ・マッシモでの競技を観覧するための展望台があった。宮殿の2つの浴場はこの展望台とスタディウムの間にある。それらはドミティアヌス帝によって創建され、セプティミウス・セウェルス帝によって再建されたという。
パラティーノの丘の説明板とは違う説明だなあ。
観覧席の外からチルコ・マッシモ(Circo Massimo)を見下ろす。今は発掘調査が行われているようだ。
右側に回るとチルコ・マッシモの長大さがわかる。『地球の歩き方』は、かつては長さ620m、幅120m、15万人収容のローマ時代最大の円形競技場。ここで馬の引く戦車競技が盛大に催されたという。
その先には「真実の口(Bocca della Verita)」で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン(Santa Maria in Cosmedin)教会がある。昨日はバチカンから教会そしてチルコ・マッシモの南側の道をバスで通った時に、「真実の口」に手を入れている人が見えた。しかし、パラティーノのこの辺りを見たいと期待していたが、並木に邪魔されてよく見えず残念だった。
そしてここからはパラティーノの丘の南端が見られる。
あれ、向こうの白いドームがバチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)?左端中程の大きな黄色い建物の向こうの白い三角屋根の向こうにサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の塔が見えているではないか。
※参考文献
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
「地球の歩き方’10-’11 イタリア」(2009年 株式会社ダイヤモンド・ビッグ社)
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「roman・forum・palatine・colosseum・guide」(2008年 Electa)