お知らせ
イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2017年4月3日月曜日
アリー・カプー宮殿(Ali Qapu)
イスファハーンに滞在中。
イスファハーンのイマーム広場では、王族専用モスク、B:マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーの向かい側にD:アリー・カプー宮殿がある。
Dの文字が大きな方形の中央にあるように、宮殿の区画は広いが、見学したのはBの真向かいにある建物。
『ペルシア建築』は、王朝政府の中心的施設であった。おそらく北方様式を踏襲したものであろうが、プランは正方形で、後半部が七階建てになっており、前半部の上半がターラールの形をとる。このターラールは200人あるいはそれ以上の廷臣たちを収容し得る巨大なレセプション・ホールであって、ここに着座すれば、モスクのドームやミナレット、が点在する素晴らしい市街地の眺めもさることながら、何よりも、眼下のメイダーンにおいて催されるさまざまな行事を観望することができたのであるという。
イマーム広場に面した門の正面に、王族専用のモスク、マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー(1601-28年)を建てたので、建物はそれ以前に王族の住居として建立され初めていただろう。当時はその往来を妨げるこの大きな池はなく、ポロ競技などが行われていた。
世界遺産オンラインガイドのアリー・カプー宮殿は、15世紀ティムール朝の時代に建てられた宮殿に、その後、アッバース1世が2層の建物を敷設したもので、イラン最古の高層建築です。
アリー・カプーとは、「アリーの扉」という意味で、シーア派が崇敬するアリー(ムハンマドのいとこで第4代カリフ)の遺物を納めた聖堂の扉を、アッバース1世が設けたことに由来しているといわれていますという。
『神秘の形象イスファハン』は建立年を1598-1606年としているが、広場に面した高いイーワーンとその左右が二階建て、上に平屋根になった多柱式のテラスという建物は、ティムール朝期のものなのだろうか。
『イスラーム建築の見かた』は、ターラールとは現在のペルシア語では、大きな空間を意味するが、建築史上で使う場合は、近世イラン・サファヴィー朝期の宮殿建築にあるような、「列柱開放広間」を指す。柱をグリッド(格子)状に林立させ、平天井を架け、三方を開放する空間である。
こうしたターラールは、17世紀半ば以後のイラン宮殿特有の造形で、カスピ海岸の木造建築をルーツとすると述べる学者もいるという。
そうそう、このようなものをターラールと呼ぶのだった。ターラールはティムール朝期のものではないことは確かなようだ。17世紀半ば以降ということだが、この宮殿は遅くとも17世紀初頭に完成している。
広場に面したイーワーンから入ると、ずっと遠くまで建物が連なっていた。
振り返るとマスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー。この広場の地下道を通って夫人たちは礼拝室に通ったという。
奥の階段からどんどんと上がっていく。通路の壁にフレスコ画が部分的に残っている。
広間は上の階まで吹き抜けになっていて、見上げると瀟洒な植物文で埋め尽くされた円天井が。
広場側から光が入る。この時代の特徴なのか、マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーの礼拝室のドーム架構と同じように、四隅スキンチとそれを支える壁体が一体化している。しかもドームの下は4つ尖頭アーチになって、壁体がなくなっている。しかもそれが二階建て分の一階床まで続いているのだ。
スキンチの上にはアーチ・ネット風のリブの組み合わせがあり、その一つ一つの区画には、図柄が左右対称に配されている。スキンチ内には、変則的なメダイヨンの主文の左右に、樹木や動物などが、細密画風に描かれている。こんな風に見ていると、この建物は夫人たちが暮らすに相応しいと思ってしまうが、『ペルシア建築』が書いているように、廷臣たちの行き交う場だったのだ。
壁紙ではなく壁画。
暖色系の地に、同じ色調で、様々な文様が描き込まれている。
フレスコ画が描かれていた壁面の漆喰を剥がすと、現れたのは日干しレンガ?
広場側に出て奥の階段から上階へ。登り口は曲面。
どうでも良いことだが、イランでもスマフォは普通に使われている。
階段は絵付けタイル。
続く階は明るかったが、2つのムカルナスの間には尖頭ヴォールト天井が通っていたりする不思議な天井で、今まで通ってきた広間の高い天井とは全く違っていて、低かった。
北側には暖炉が設えられている。警備の兵士がいた部屋という。
こんな部屋が3つほど縦に連なっていて、王に謁見する人たちの待合室もあった。
階段、部屋また階段とのぼり続け、階段の絵付けタイルは紺色になったり、黄色になったりを繰り返した。
たどりついた小間の天井は木製。
窓には簡素な組子。これってペルシア風?
尖頭アーチの火灯窓?にはもっと細かいものが。組子はウズベキスタンだけではなかった。
やっとターラールの階へ。
テラスから遠望すると、混乱するくらいたくさんのミナレットやドーム。
左の大きなドームや監視塔のあるイーワーンは、きっとマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)に違いない。これは明日見学することになっている。すると右の高いミナレットは、セイード・アリ・ミナーレ(ミナレットのペルシア語)だ。これはイラン現存最古のミナレットということで、朝散歩で行けたらいいなと思っていたものの一つ。
で、私が見たいと思っている、嵌め込みタイルの現存最古の例サレバン・ミナーレはというと、多分、ずーっと右(南東方向)にある、右のミナレットに違いない。
実は、朝散歩で、タクシーで行けるかどうかを添乗員金子貴一氏と現地ガイドのレザーさんに尋ねたところ、イスファハーンでは時間に余裕があるので、明日マスジェデ・ジャーメを見学した後に、皆さんと一緒に行きましょうと行って頂いた。ツアーの他の方々には迷惑だったかも知れないが、私にとっては夢の叶う機会となった。
しかし、こんな遠方を探していたので、肝心のイマーム広場やマスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーを写すのを忘れていた。
ターラールの天井は極彩色のフレスコ画で埋め尽くされている。これまで見てきた宮殿のフレスコ画は草花文だったが、天井は幾何学文。
天井には一段高くなっている箇所があり、玉座のあった場所かと思って床を見ると、不揃いに金属の板を釘付けてあった。噴水があったという。
ムカルナスの柱頭とそれぞれの天井画
細い柱は八角形のようで、浮彫装飾はない。それがウズベキスタンの円柱との違い。
浮彫がないどころか、荒削りのままのラフな仕上げ。
ターラールの奥にあるイーワーンは華麗な植物文で埋め尽くされている。
このようなムカルナスはかなり以前から構造体ではなくなり、建物の装飾と化しているが、ここでは、壁面とムカルナスはそれぞれ独立して区画されている。
このイーワーンの左右の壁には、野でくつろぐ女性の姿が。
イーワーンから広間に入る。
複雑な天井。
どうやら、東壁と西壁はイーワーン状になっていて、天井の中央をドームにせずに尖頭ヴォールト天井風にし、しかも四方を切り込み、明かり採り窓をつくっている。
イーワーン頂部では地文に小さな花々、樹木、そして鳥が描かれている。
下の5つ並んだ浅い壁龕にもフレスコ画
違う面の小壁龕には鳥と樹木などが左右対称に描かれている。面白いことに、鳥の尾が、下にいく程長くなって、一番下は飾り羽根を閉じたクジャクで、そこには花が描き込まれている。
後方は大きな尖頭アーチの開放空間になっていて、宮殿の一部を見る事ができる。下の建物の間にある通路が、広場からの入口と繋がっている。
現在では芸術大学になっているそうだが、右向こうのドームのある丸い建物は、当時スーフィー(神秘主義者)が使っていたものだという。
その左手。遠くにザクロス山脈が見えるが、広大な平野にイスファハーンは位置し、現在でも賑わいのある街である。
これで終わりではない。次に螺旋階段を登っていく。段差は少ない。
壁や天井には植物のフレスコ画。
やっと最上階へ。見上げるとムカルナス天井に浮かんでいた。
この部屋はアッバース2世(在位1642-66年、アッバース1世のひ孫)が造ったという。
そう見えるのは、四方に小窓が並んでいるから。
チャハール・イーワーン(4つのイーワーン)になっていて、それぞれのイーワーンにはムカルナスとアーチ・ネットを組み合わせた区画が無数にあり、それぞれに陶磁器の形に切り込みがある。そのため「陶磁器の間」と呼ばれている。向こうの部屋も同じようになっている。
王はここで瞑想するときに、楽士たちに音楽を奏でさせた。このような穴が外界からの音を消したのだとか。それで「音楽の間」と呼ばれることもあるようだ。
似たような壁面の装飾的な壁龕はヒヴァのクニャ・アルクの謁見の間でも見た。そこでは壁面の物入れのようになっていたが、そのルーツはサファヴィー朝だった。もちろん、アリー・カプー宮殿のものは物入れではない。
似ているようで少しずつ違う。ムカルナスやアーチ・ネットの凝り方が違うものもあれば、
それは同じでも陶磁器の形が違うものも。
これは漆喰細工だったので、軽いが壊れやすいという。割れている所もあった。漆喰で造った薄い膜に陶磁器の形に透彫したようなものだった。
その後は階段をひたすら下りていき、建物に囲まれたこの通路に出た。
そこから見上げる。この建物が6階建てという人と7階建てという人がいる。どうも一つの階の区切りが2つの階分あるようで、一つの階がどれをいうのかわからない。
左最上階にはこんなイーワーンが。外気や風雨に晒されて、彩色は失われても、陶磁器の形は残っている。儚そうだが丈夫なものかも。
少し北の通りから見えた宮殿の奥行。平面が正方形というのが納得できる。
マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー← →チェヘル・ソトゥーン宮殿
※参考サイト
世界遺産オンラインガイドのアリー・カプー宮殿
関連項目
イランに残るレンガ建築
サファヴィー朝のムカルナスは超絶技巧
ウズベキスタン国立美術館2 建物の扉と室内の装飾
※参考文献
「神秘の形象 イスファハン~砂漠の青い静寂~」 並河萬里 1998年 並河萬里・NHKアート
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
添乗員金子貴一氏の旅日記