お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2008年5月26日月曜日
2日目-8 掘仏寺(クルプルサ 굴불사)の四面石仏(サミョンソップル)を見に
脱解王陵の北側の寺院(帰りに写した写真より)に沿った道を自転車で行ってみた。車があまり通らず走りやすい道で、道の両側がお寺と駐車場になっているところに出た。掘仏寺は廃寺のはず。運良く人が通りかかった(下の写真では右端の切れているところの近く)。
サミョンソップル
カタカナを読んでみても、発音もアクセントも韓国語にはほど遠いはずで、必ず聞き返される。ガイドブックの写真を見せてようやくわかった。右の道を行けばいいらしい。すぐに駐輪場があり、MTBを置いて歩きだすと、すぐに右折で整備した道になった。色とりどりの提灯が道の両側に飾ってある。迷うほどの距離もなく四面石仏が見えてきた。徒歩1分、11:12。細い柱が何本も立っていて、白い糸が張ってある。
小さな橋の前に説明板がある。この仏像は慶州の北側の小金剛山の麓に位置する。高さ3mの大きな岩にいろいろな菩薩像を彫刻した四方仏である。『三国遺事』には、新羅時代の景徳王と関連のある記録を通して、掘仏寺という寺院名と仏像の彫刻の時期が明らかになったという。『慶州で2000年を歩く』で武井氏は、景徳王が栢栗寺に来たときに、地中から読経の音が聞こえてきたので、掘ってみたところ大きな石がでてきた。その石の四面に石仏を彫らせて寺をつくらせたのだという。岩の大きさは長さ4m、高さ3.5mほどである。四面に7体の仏像が彫られているが、その彫り方は各面で異なり、統一的ではないという。私は面によって時代が異なるという風に解釈した。近づくと、その糸は石仏の顔を見にくくするためかと思うほど、たくさん張ってあった。石仏は雨ざらしで摩耗している上に糸がたくさんあって、顔がよくわからない。正面で見てもこれです。四面の西側なので阿弥陀三尊像。阿弥陀如来の首の部分は別の石に彫って岩の上に載せているという。左脇侍(向かって右)の観音菩薩はよく残っているが右脇侍の勢至菩薩は頭部、両腕が欠けている。それにあまりにも両脇侍の姿が異なっている。別々に造られたような気がする。新羅仏は時代でいうと、全体のバランスの良い方が古く、頭部が大きくずんぐりしてくると時代が下がる。北側の面には菩薩像が2つ彫刻されている。特に1つは顔が11面、手が6つの観世音菩薩像で、わが国では貴重なものであるという。しかし四方仏としてつくった場合、北側は弥勒如来になる。小さな立像は如来形となっている。左側の空間の十一面観音像は線刻で風化がひどく、近寄って見ることもできなかったので、わかりにくかった。東面は薬師如来坐像。左手にのせているのは何?南面は2体は同じ大きさで、右側は菩薩のようでもあり、よくわからない。確かに仏像の様式がバラバラに見える。それぞれに別々の寄進者が彫らせたのかも。
武井氏は、四面石仏は統一新羅時代に流行したもので、ここのものは8世紀中ごろにつくられたと考えられているという。
石仏については掘仏寺(クルプルサ)の四面石仏、西側の二菩薩はへ
※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)