お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2008年5月25日日曜日
2日目-7 迷いながら脱解(タルヘ 탈해)王陵へ
本日2番目の見学地芬皇寺の後は、北の方に行くことにしていた。四面石仏が見たかったので、ついでに途中にある脱解王陵も見るつもりだった。
10:25、芬皇寺前の細い道を東に抜け、自転車道のある歩道を北上した。じっくり信号を待って4号線を越え、九黄橋を渡るところでおばちゃんが何か売っていた。食べ物だったが、お腹はまだ満タンだった。
橋の向こうの信号は運良く青、しかし右通行なので、どんどん右折車がやってくる。脱解王陵は右側にあるので、ここの横断歩道を渡った。
MTBに乗っていると段々不安になってきて、渡ったところに横断歩道を渡りもせずに立ち止まっている夫婦に聞いてみることにした。それは、私家版ガイドブックに載せたアバウトな地図(韓国観光公社作成ですが)では、脱解王陵(タルヘワンヌン)がどのへんにあるのかさっぱりわからないからだった。
タルヘワンヌン
地図を見せてみたが、夫婦はわからないらしかった。すぐにバスがやってきて停車した。すると、向こうで聞けという身振りをしてバスに乗った。何もしていないのではなく、バスを待っていたのだ。
指したの方向にはレストランらしきものがあったので、行ってみた。団体の観光客が入るようなレストランの隣に土産物屋のような建物があり、そこに少し日本語のわかるおっちゃんがいた。
タルヘワンヌン
200mほど道沿いに行って、右折すると行けます
200mをずっと過ぎてあぜ道でない道路があったので右折。どこだろうと思いながら自転車をこいでいくと段々上り坂となり、左カーブとなって、その先は進入禁止になってしまった。我々が追い越した歩いていた人たちがやってきて、左側の山に入っていく。そこが脱解王陵か尋ねたが違うらしい。それでガイドブックに載せていた写真を見ると、全然違うことがわかった。
引き返して小川を越えたところで、右側の向こうの方に何か建物があり、観光客の車やバスがたくさん駐まっているのが見えた。
とりあえず行ってみよう小川沿いの農道のような道を行ってみると、それはかなり派手な建物で、新羅時代の王陵とは関係なさそうだった。通り過ぎていると右側の松林の隙間から円墳が見えた。
あったあった
それでもおっちゃんは自転車で進んでいく。
どうするの?自転車を駐められる場所を探そうと思って
王陵の近くに置いたらええやん
そんなところに置いてかまわんのか
おっちゃんの希望により、王陵の少し手前で自転車を置いて見に行った。写真で見たような円墳があり、側に「新羅脱解王陵」と漢字で書かれた石碑があった。人気のない静かなところだった、10:51。
左側の柵に沿って通路があるらしく、人の行き来があった。小金剛山にでも登るのだろうか。
説明板に、慶尚北道 慶州市 東川洞 山 17
この陵は新羅時代の第4代脱解王(在位:57~80)の墓で、直径14.3、高さ4.5mの円形封墳であるという。どのガイドブックやサイトにもそのように書いてあるのだが、1つのサイトにはそれを否定する文があった。サイト名不明の伝脱解王陵(史跡) は、古墳が脱解王陵とされはじめたのは1730年以降のことと思われる。しかし現在の学界では、より古い時期の古新羅古墳圏域である慶州市中心部から遠く離れた山麓にこの古墳が位置し、6世紀または7世紀の築造と推定される西岳洞古墳群の古墳と同じ統一期前後の古墳と推定される点、墳丘規模が王陵としては小型に属する点、 ・・略・・ 脱解王陵とは認められない趨勢にあるという。
これについては、私も少々不思議だった。古い墳墓は平野部にあり、時代の下がるものは山の麓や谷にあるとか、時代の下がるものは墳丘が小さくなるとか、本で読んでいたからだ。
下の新羅・統一新羅時代の王名表は『図説韓国の歴史』を元に作成しました。ところが、肝心の脱解王を赤字にするのを忘れていました。忘れへんうちに訂正します。
円墳の前には新しそうな供物台と椅子のようなものが置かれていた。というより、これだけ見ると碁盤と碁笥みたいやなあ。こぢんまりと、ひっそりと小金剛山の麓の傾斜地にある陵墓で、周りは松林になっている。
せっかくなので王陵を一周してみよう。あたりは松林なので、車が見えなければ海岸のような雰囲気。裏正面はところどころ芝生がはがれている。
蟻の巣ちがう? 供物台の付近だけ敷石がある。北側は普通のお寺みたいで、法事があるのかにぎやかでした。陵の前にあるのは供物台ではなく、魂が泊まる場所という意味の魂遊石だそうです。これについては、4日目-5 大陵苑(テヌンウォン 대릉원)で味鄒王陵と天馬塚 へ。
※参考文献
「図説韓国の歴史」(金両基 1988年 河出書房新社)
※参考サイト
サイト名不明の伝脱解王陵(史跡)