お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年6月26日木曜日

4日目-7 路東里古墳群には金鈴塚(クンリョンチョン 금령총)と飾履塚(シッリチォン 식리총)


大陵苑は南側に出口があるので、太宗路を挟んで向かい合っているとはいえ、路東里路・西里古墳群に行くには、大陵苑を回り込まないと行けない。
出口から塀に沿って行ってみよう
土産物屋や食堂街を通り抜けたと思ったら、崇恵門というのがあった。説明板は中国語だった。適当に読んでいくと、崇恵殿は新羅で金氏最初の王13代味鄒王(大陵苑に陵墓)から、三国統一して新羅最後の王となった文武大王(感恩寺建立、海中陵)までの位牌が安置されているのだそうだ。 できるだけ大陵苑の塀に沿った方が良いと思って、ある通りを右に曲がると、塀はなく、空き地に入り込んでしまった。そこには3匹の番犬がいて、一斉に吠えかかるので、早々に退散。すると、細い入り組んだ通りに入り込んでしまった。このあたりは1軒1軒白い塀に囲まれているので見通しがきかない。
ある通りで小さな銀行があった。市街地の銀行で両替をする予定だったので、ここで両替できれば時間の節約になる。おっちゃんは入って行った。
大きい銀行へ行ってくれと言われた
信用金庫みたいなところやったかもね
その後左折・右折を繰り返したところで大きな通りに出た。その通りを北上するとまもなく太宗路に行き当たった。こんな風に迷いながら行くと街の印象が強く残りますなあ。写真に撮る余裕はなかったけど。通りを挟んで古墳群が見える。ここで太宗路を北側に渡る、11:50。 自転車を置いてまず路東里古墳群から見学。説明板は、この古墳群は慶州の月城を中心として、西から北東側に分布している多くの新羅の古墳のなかで、西北側の端に位置している。ここは真ん中にある道路を境界にして路東里・路西里の古墳群とに分かれている。路東里古墳群には古墳1基と古墳跡2基がある。北側にある古墳は円周250m、直径82m、高さ22mの韓国で最も大きい規模であり、鳳凰台とも呼ばれる。南側には1924年に発掘調査した金鈴塚の跡と、飾履塚の跡があるが、内部の構造はみな積石木槨墳である。ここから金冠や陶製騎馬人物像をはじめ、多くの副葬品が出土されたという。遺跡に踏み込んだものの、暑いので唯一の木陰から眺める。左側に大きな古墳がある。大きな古墳に大きな木が生えているなあ。 前方には2段の盛り上がりがある。向こうの小高い方が飾履塚、こちらの広く平べったいのが金鈴塚、出土品で名称が付いている。そして、その手前に緑の線が弧を描いている。きっと我々がいるところにも古墳があったのだろう。 飾履塚はそんなに大きくはない。文字通り飾履が出土した。 金鈴塚の方が面積でいうと広い。 金鈴のほか、騎馬人物土器が出土した。向こうに見えるのは大陵苑の太宗路に近い瓢箪形の古墳。遺跡公園に整備するのか、歩道を付け替えているのか工事中だった。鳳凰台を一回りしてみる。 路東里と路西里の間の道に出た。鳳凰台(ボンファンデ 봉황대)は未発掘という、12:01。
金鈴塚・飾履塚の副葬品については路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品1をどうぞ