お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2007年5月28日月曜日

法然院の墓を見て石塔寺に行きたくなった


春に京都、法然院に行った時、前から気になっていた墓の写真を撮ってきた。 苔むしているぶん古そうに見えるが、思ったほど古いものでもなさそうだった。江州阿育王塔に倣って墓石をこの形にしたようだ。
阿育王塔という名前は記憶にないが、この塔の形は見覚えがある。十数年前に行った湖東の石塔寺の写真を探してみると、ピンボケ気味のものが出てきた。法然院にある墓はそっくりだった。
久しぶりに本物の石塔が見たくなって出かけた。名神八日市インターからそんなに遠くなかった。「阿育王山石塔寺(あしょかおうざんいしどうじ)」について、お寺のパンフレットによると、

聖徳太子は、仏法興隆のため近江に四十八の寺院の建立を発願されましたが、石塔寺はその満願のお寺で、もとの名を本願成就寺と称しました。
但しその後次第に衰退し四百年後の平安時代 ・・略・・ 阿育王塔はこの中かと帝勅使平恒昌を遣わし、光盛等と共に発掘させたところ土中より大塔が出現いたしました。 
一条天皇は大変お喜びになり、七堂伽藍を新たに建立され、寛弘三年、寺号を阿育王山石塔寺と改められました。 ・・略・・
鎌倉時代になりますと、参拝の方々が、ご自身の極楽往生のため、またはご先祖の菩提を弔うために、仏舎利塔である阿育王塔の周りの霊域に、五輪塔や石仏を奉献されるようになり、その後、数百年の間に多くの数になりました。 
織田信長の元亀の兵火等により、伽藍は焼失し全山荒廃しましたが、江戸時代初期、天海大僧正の弟子行賢によって現在の寺領の部分が復興されました。
江戸時代にも石塔石仏の奉献は引き継がれ、阿育王塔はじめ、無数の石塔石仏は、往時人々の信仰の深さを伝えています。 


ということだが、裏面には山上の阿育王塔(三重石塔)は、インドの阿育王が、仏法興隆のために、世界中にばらまいた八万四千の仏舎利塔のひとつとされ、よって当山は、阿育王山石塔寺と申します、とも書いてある。
左側に参道が続いていた。昔来たときに、石塔が素晴らしかったことと、その周りに小さな五輪塔がたくさんあったことが記憶にあったが、もうここで右前方に小五輪塔群が見えている。  数段登った右側に山門があった。向こうに石仏が見えるが、古いものではなかった。本堂は公開されていないようだった。門を出たら向かい側に受付があった。さて、石塔を見ようと思ったらこの石段を登り切らねばならない。その上、左側にずらりと並んだ五輪塔群にも目を向けなければならない。石段5つ分で五輪塔群のある段1つに相当するように見える。よく見ると五輪塔だけでなく、石仏もかなりの数並んでいる。これで3分の1くらい登ったかな。
ほとんどの五輪塔・石仏群の段では、左端に五輪塔が並んでいるが、ここだけ手前に地蔵さんがあった。そして一石五輪塔群もあった。
その後五輪塔群はなくなり、しばらく石段を登っていくと、やっと石塔が見えてきた。
昔見た印象と変わらない石塔がそこにはあった。その時は夕暮れ時で、無数の五輪塔群がどこまでもありそうな上に、少し不気味だったので、この石塔を見ただけで、すぐに下りてしまった。今回は、こんなに五輪塔があったのかなというくらいの違和感しかなく、それは整備が進んだのかも知れないくらいにしか思わなかった。
ところが、帰宅後、昔の写真と見比べて違いがやっとわかった、お堂がなくなっているのだった。