春に京都、法然院に行った時、前から気になっていた墓の写真を撮ってきた。

阿育王塔という名前は記憶にないが、この塔の形は見覚えがある。十数年前に行った湖東の石塔寺の写真を探してみると、ピンボケ気味のものが出てきた。法然院にある墓はそっくりだった。

聖徳太子は、仏法興隆のため近江に四十八の寺院の建立を発願されましたが、石塔寺はその満願のお寺で、もとの名を本願成就寺と称しました。
但しその後次第に衰退し四百年後の平安時代 ・・略・・ 阿育王塔はこの中かと帝勅使平恒昌を遣わし、光盛等と共に発掘させたところ土中より大塔が出現いたしました。
一条天皇は大変お喜びになり、七堂伽藍を新たに建立され、寛弘三年、寺号を阿育王山石塔寺と改められました。 ・・略・・
鎌倉時代になりますと、参拝の方々が、ご自身の極楽往生のため、またはご先祖の菩提を弔うために、仏舎利塔である阿育王塔の周りの霊域に、五輪塔や石仏を奉献されるようになり、その後、数百年の間に多くの数になりました。
織田信長の元亀の兵火等により、伽藍は焼失し全山荒廃しましたが、江戸時代初期、天海大僧正の弟子行賢によって現在の寺領の部分が復興されました。
江戸時代にも石塔石仏の奉献は引き継がれ、阿育王塔はじめ、無数の石塔石仏は、往時人々の信仰の深さを伝えています。
ということだが、裏面には山上の阿育王塔(三重石塔)は、インドの阿育王が、仏法興隆のために、世界中にばらまいた八万四千の仏舎利塔のひとつとされ、よって当山は、阿育王山石塔寺と申します、とも書いてある。









ところが、帰宅後、昔の写真と見比べて違いがやっとわかった、お堂がなくなっているのだった。
