お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年5月29日木曜日

2日目-11 仏谷龕室石仏座像は南山最古


博物館に行ったら、ついでに南山の谷にある石仏や磨崖仏を見に行くことにしていた。
車の多い7号線よりも、狭い道の方が近道みたい
抜け道を地図で見つけていたが、それは博物館の駐車場の間にある道だった。ところが慶州インターへと抜ける広い通りは、両側からものすごいスピードでどんどん車が通過するので、なかなか越えることができなかった。
地図では高架になってるけどね。危ないから向こうの信号のある交差点で渡ったらあれは7号線やし遠回りやん
奇跡的に片側ずつ車が途切れて、なんとか渡ることができた。急がば回れでした。いらちの私にありがちです。

渡った先はもっと狭い道が曲がりくねっていたが、川筋まで出ると先ほどの殺人的な車社会とは隔離された、のどかな陽地村と蚊川の流れがあった。ここからあの橋を渡って、左折して、川の対岸をMTBでとばした、14:39。脱解王陵のことがあるので、仏谷がすぐに見つかるか心配だったが、それは無用だった。ちゃんとハングルと英語の標識があった、14:46。入ったところが駐車場で、ここから歩いて400mか。 道が分かれていて、左側へ登っていく。 なだらかな登りが続く。足元には白や紫のスミレが咲いて、新緑の木々も日本と変わらない。 笹藪が続いた先に、道標があった。30mと書いてある上は雁鴨池より出土した緑釉鬼瓦(8世紀)、その上の欠けた人面文軒丸瓦(7世紀)は沙正洞霊妙寺址出土のものが使われている。人面文の方は慶州のシンボルのように、あちこちの案内に使われていた。 急な坂を登り切ると岩場が現れた。この中に石仏がある、14:59。岩を削って奥に造ったために、ほとんど風化していない。ちょうどいい岩があったものだ。 所在地:慶州市仁旺洞 山56
この仏像は自然岩に作られた龕室(塔の下の小さい空間)の中に祭られており、慶州の人々には「お婆仏」と呼ばれている。頭部は陽刻されており、顔は丸く、目は銀杏のように表現されている。肩は柔らかい曲線をなしており、法衣は両肩に掛けられて、垂直に垂れ、四角形の台座を覆っている。手は法衣の中にいるように表現されており、足は右足だけ出して、やや不自然な感じがする。
この仏像は長倉谷の童子仏と拝里の三尊仏とともに新羅時代の石仏としては早い時期の7世紀前半に作られたと推定される
という。体に比べて頭部が丸彫りに近い。『慶州で2000年を歩く』で武井氏は、仏谷龕室石仏座像は南山のなかでも最も古く、雪国のかまくらの中に、かんざしを挿したおばあさんがちょこんと座っているような仏像だ。最近、石仏自身やその右目前方の壁が赤く色づいていることが注目されている。自然の石の色と考えられてきたが染料の痕跡が見つかり、3枚の蓮の葉と茎などを描いたものではないかといわれるようになったという。こんなに目立たない1つだけポツンとある、しかも歩かなければ来られないようなところにも、人はやってくる。そういう人たちは我々と違って信仰に篤いので、熱心に拝んでいる。多くはないのだが、人が途切れないので、じっくりと蓮の葉を観察するわけにはいかなかった。 その上、学生のような団体がわいわいやってきて、このお婆を背景に記念写真を撮りだしたので、引き上げることにした。

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)