お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年5月28日水曜日

2日目-10 国立慶州博物館には三層石塔もいっぱい


雁鴨池は先ほど傍を知らずに通ってきたところだ。今回は時間がないことと、慶州博物館で出土品を見られるということなので、見学は見送っていた。『慶州で2000年を歩く』で武井氏は、674年に王宮の中に池を掘り、山を築き木を植えて、珍しい鳥や獣を放したという。1975年の発掘で、人工的な直線と自然な曲線をうまく生かした池だったことが判明した。池のまわりに置かれた石の多くが海から運ばれた石であり、海のない慶州で池が海につながっているというイメージができるようにつくられたといわれるという。674年といえば、海中陵に葬られたと言われている文武王の時代のことだ。668年に半島を統一、統一新羅という大きな国土を統治した王であるが、つくづく海が好きな王だったのだと思う。 
館では様々なものが出土していた。池から仏像が見つかったというのは驚きだったが、プサンナビの雁鴨池(臨海殿址)によると、935年の新羅滅亡によって鮮やかだった宮殿も破壊され、美術品などもすべて池に放り込まれたということであれば納得できる。
10分そこそこで雁鴨池館から出ると、またしても石製浮彫が横長の館の前に並んでいた。四天王だろうか。そしてようやく終わった雁鴨館の南側にも三層石塔があった。慶州博物館のすぐ南にひろがる南山の西側の谷、三陵渓にあったもののようだ。西側の野外展示が終わったところで向きを変えたら、中庭に仏国寺の釈迦塔(三層石塔)と変わった形の多宝塔のコピーがあった。13:25、奥の美術室へ。仏教関係の遺物や仏像を見た。13:44、外に出る。南側にも礎石や三層石塔の部材などが所狭しと置かれている。こちらも小型の三層石塔の部材が並んでいる。穴のあいたところに舎利容器などを収めたのだろう。南東の端には大きな三層石塔があった。そして東側には奥に礎石、手前には礎石で囲まれた亀趺がある。説明板によると、高仙寺には、三層石塔、金堂跡、頭のない亀趺のみが残っていた。1975年、徳洞ダムの建設に伴う発掘調査を行った結果、金堂跡、講堂跡、中門跡、回廊跡などの建物跡が確認され、金銅仏、瓦、磚など多くの文化財が見つかった。この寺跡にあった三層石塔と金堂跡、碑閣跡の地台石と亀趺は国立慶州博物館に移されたという。徳洞ダムは普門湖から感恩寺へと行く途中にあったダム湖です。そしてやっと軽食堂を見つけた。
韓国風うどんのカルクッスが食べたいなあ
中に入るとカルクッスを食べている人がいたが、ギョーザという字が気になった。マンドゥという韓国風ギョーザかも知れないと思い、それを注文した。そしてやっとお昼にありついた、14:02。おっちゃんはビビンバ、私はギョーザスープ。非常に日本のギョーザに近い、あっさりしたものだった。黄色いのはタクアンです。食後考古室の2階から見えた仏像群を見る。その後は考古室の前に出た。ここには本のコーナーがあったのだが、他のところにも本は売っているだろうと、寄らずに出てしまったが、他の館にはミュージアムショップがなかった。2階に上がって本を探したかったが、おっちゃんは渋い顔をするので、博物館の図録は買えなかった、14:28。

※参考文献「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)

※参考サイトプサンナビの雁鴨池(臨海殿址)
野外展示の三層石塔については三層石塔のチブンパッチムは年代の基準となるのかをどうぞ。