グーグルアースで反弾琵琶の天人広場から西へ向かうとすぐに橋がある。
堂河を渡ると道なりに南西へ車で走る。郊外に出るとすぐにゴビ灘の真っ直ぐな道になる。美しいとは言えないが、この何も遮るものがない景色!
この年は黄砂がひどかった。その砂の飛び立つ所に行けば青空が見えるかと思っていたが、敦煌でもすっきりしない空だった。それでも蜃気楼見えた。

涅槃像の枕元に堂河のダムサイトが見えてきた。

右端の目のような形は西千仏洞と植林。
当時の記憶では、途中で小さなオアシスの集落を抜けた。道路の両側の溝には水が流れ、木が並んでいる。その向こうに民家が軒を連ねているのだが、高い塀で中が見えない。「小突部」という看板は村の名前か、お店の名前かわからない。
確か集落を抜けると南下したように思う。ブドウの乾燥庫もあった。

陽関はこのような小さなオアシスに囲まれていた。水がなくては生活できないから当たり前のことだが。
陽関付近の集落と、当時はなかった陽関故城なるものがはっきりとわかる。
車を置いて陽関の遺跡まで歩こうとすると、馬を引いた人たちがやってきて「安いよ、安いよ」と言いながら、いつまでも付いてくるのには閉口した。すぐそこまでだし、我々は山では遅いかも知れないが、平地では健脚である。せっかく来たのだから、ゴビ灘とはいえ少しは歩きたかったのだ。
まず、遺跡らしいものが見えてくるが、これは漢の烽火台(狼煙台)で、道中ポツポツと見えた。これでは近寄って見ることができないが、見学する予定のなかった漢の万里長城と同じく版築で造られている。

烽火台はグ-グルアースでは中央の少し上。下の鳥が飛んでいるような形の建物は現代のもの。
馬牽きに追いかけられながら辿り着いた屋根付きの廊下のような建物は、陽関の遺跡を見物するためのものだった。
そして、遺跡と言えば、緑の手前に広がる何もないゴビ灘が陽関なのだそうだ。ガイドの李さんは「洪水で流れてしまいました」と言った。元の敦煌の町も流出し、現在の町は清の時代にできたということだった。
何もない遺跡というのも良いものだ。妙な建物が復元されているよりも。
そして陽関址の東部に広がるオアシス、水のある証拠はグーグルアースでなくても現地で見ることができた。
