お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年12月5日金曜日

グーグルアースで鳴沙山を探す


敦煌莫高窟を堪能した後、敦煌の町を抜けて鳴沙山へ向かった。グーグルアースで敦煌の町を見つけた。

中央の広場をズームしていくと、ロータリーの中央に反弾琵琶の天人像があるのがわかる。何故か写真を撮ったら琵琶が見えないのだが、これは敦煌が吐蕃(チベット)に支配されていた中唐期に開かれた莫高窟第112窟の、南壁の観無量寿経変(西方極楽浄土)図に描かれた琵琶を背中にして弾きながら踊る天人(下図)を表した像で、実際には琵琶を弾くことはできないらしい。琵琶を持つ踊りの一種のようだ。
広場の1本西の広い通りをどんどん南下していくと、駐車場のような広場が見えてきた。そうそう、ここで車を降り、歩いたのだった。道路の横にある道のようなものは・・・そう言えば、土産物屋が続いていた。いろんなものを売っていたが、西安から一緒に来たスルーガイドの若い謝苗さんが、ラクダのぬいぐるみに魅入っていた。
鳴沙山に近づくと前の建物が迫ってきて、山がよく見えない。それは、何故か門だった。この門を通らないと鳴沙山には行けない。

門を入るとたくさんのフタコブラクダと駱駝使いがいた。ラクダに乗って月牙泉まで行くことになっていたのだが、グーグルアースで見ても、ラクダも人も見えない。門の東から轍の道ができている。今は自動車かロバ車に乗っていくようになったのだろうか。午前中なのか人気がない。

さて、ラクダに乗る時、目が合い「ウマが合いそうだ」と思った。コブとコブの間にまたがると、当然のことながら鐙に足は届かなかった。しかし、ラクダの体の温かさが安心感として伝わり、大丈夫!と思った。ペトラの馬とはえらい違いだ。
ラクダは後ろ脚から立ち上がるので気を付けるようにというのを昔読んだことがあった。それは斎藤茂吉が輝子夫人や他の一行とエジプト旅行中にラクダに乗った時のエピソードだったと思う。注意を受けたにもかかわらず茂吉は落駱駝したという。
月牙泉(向こうの木々のある辺り)に向かっていると、戻ってくるグループとすれ違った。何故かマスクをつけている。駱駝の揺れにはすぐに慣れ、快適だった。写真やビデオを撮ることもできた。
 
月牙泉の手前でラクダから降ろされた。ラクダ使いは我々に風鐸のようなものを見せたが、どこに行っても「安いよ」「見るだけ」攻勢にうんざりしていたので、よく見もしないで断ってしまった。
鳴沙山には階段のようなものがあって登ることができるらしい。たくさんの人が板のようなものを持って登っていき、それに乗って滑って下りてくる。
しかし、夫は出国前から体調が悪く、私は私で、雨が降って砂漠らしくないこの光景がどうも気に入らなかった。風紋のある砂漠に立って、足元から砂がさらさらと流れて、新たな風紋ができていくというのにあこがれていたが、砂が乾ききっていないので風で動きそうになかった。上まで登るのは止めた。
月牙泉は今できの建物がある、俗化されたところだった。
上まで登らなかったことで残念なのは、鳴沙山の向こうは莫高窟の背後の山かどうか確かめられないことだった。この辺りの位置関係がいまいち把握できなかった。
しかし、グーグルアースは距離を測定することもできる。鳴沙山と莫高窟を一画面で見ようと引いていくと、意外にも砂山が連続していた。約12㎞もあるとは思わなかった。



※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟3」(1999年 文物出版社)