クチャの町を抜け、キジル石窟へ車で向かっていると、いきなりヤルダン地形が両側に現れた。ヤルダンとは風食地形のことで、おそらくウイグル語だろう。敦煌の近郊にもヤルダンがあり、絵葉書だけ買っていたが、その絵葉書で見る風食地形とはかなり違っていた。クチャのヤルダンは丸い。

直進の道を飛ばすのでヤルダン地形はすぐに終わったが、その後はチャールタグ(ウイグル語で不毛の山)となる。それはヤルダンよりもっと凄みのある地形だった。勢いを持って引っ張られた土地が急激に冷やされてコチコチに固まったとでも表現したくなるような地形だった。


三蔵法師はこの道を通りました、とガイドの丁さんは教えてくれた。
日干しレンガを積み上げた漢時代の烽火台が幾つか目に入った。しかしグーグルアースではそこまでは見つけられなかった。

しかし、平原やら荒れた山の間やらを通ってキジル石窟へと向かった道はグ-グルアースでは確認できなかった。丁さんが「ポタラ宮と呼んでいます」と指さした奇岩はどこにあったのだろう。
キジル石窟の南面を流れるムザルト河に架かる橋を渡ったというのに、その橋もグーグルアースにはない。2003年当時には、ムザルト河の橋もまだできていなかったのだろう。
もちろん、塩水渓谷のどこかからこの橋に至る道も、どうしても見つけることができないのではなく、まだ道が通っていないころの衛星画像だと思えば不思議ではない。
では、ここからグーグルアースを離れて、塩水渓谷からキジル石窟に至る行程を我々の撮った写真で追っていくことにする。
いつの間にか河と離れて赤い山間を抜けて下るとまたヤルダン地形が現れた。



ずっと山と並行して走るのだろうかと思い出した頃、左折して山に向かっていった。


この河の水は澄んでいるので、川辺に緑があるのだが、グーグルアースで見るとすぐ西にダム湖とオアシスがある。オアシスにはHei-tzu-erhという町の名が見えるが、漢字でないとわからない。

木陰を歩いていると幾分涼しかった。「コウヨウがあります」石窟専門ガイドの馬さんが言った。すると丁さんと夫も加わり3人で口々に「生きて千年 死して千年」と言い出した。私は秋になると紅葉する木があるのかと間の抜けた解釈をしたが、「胡楊」のことだったのだ。
谷内地区からは水の流れがあり、2本に分かれた水源もグーグルアースで見ることができる。

※参考文献
「シルクロード絲綢之路 第5卷天山南路の旅」 1981年 NHK出版