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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2010年12月18日土曜日

2-1 パラティーノの丘の東南部

パラティーノの丘とはどんなところか。『ローマ古代散歩』は、パラティーノは西にテヴェレ川の流れを見おろす切り立った丘である。丘の一隅には、建国の祖ロムルスのものと伝えられる前8世紀の小屋が、帝政期まで大切に保存されていた。
共和制期には、ここに住まうことがローマ貴族の見栄と願望になった。帝政期には皇帝の宮殿が雲を突くようにそびえていたことから、ラテン語のパラティウムは宮殿をさすイタリア語の一般名詞パラッツォの語源ともなった。ルネッサンス期以降は、くまなく宝探しが行われて出土品は各地に分散し、石材は建築に再利用された。
従って現在、遺構の大半は基礎部を残すのみで、見た目には見晴らしの良い広大な緑の丘にすぎないという。

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受付でローマ・パスを見せると係の人が出てきて、ローマ・パス専用の改札に案内してくれた(矢印)。タッチしてそのまま入ってしまったが、パラティーノの丘の入口でローマ・パスを見せるとフォロ・ロマーノとコロッセオの3箇所共通のチケット(2日間使える)をもらえることになっているはずなのに。そしてそのチケットがあれば、いつも入場券を買う人が長蛇の列を作っているというコロッセオも待つことなく入っていけるともいうことだった。コロッセオもタッチしただけで入ることができるのか少々心配。

入口の正面には階段と外から見えた遺構があったが、この建物の続きにトイレがあったのでそちらに注意が向いてしまった。イタリアでは公衆トイレが少ないので、トイレを見つけたら入っておいた方が良いからだ。
パラティーノの丘の分かり易い図面は『ローマ古代散歩』のものだ。我々は㉝の正面入口から入った正面の階段の上の遺構については説明がない。以下の番号も同図を参考にしています。

まず左側にある階段を上って、パラティーノの丘の南の方に行ってみることにした。
㉘クラウディウスの水道の続きがあった。ネロとドミティアヌスが浴場のために引き込んだという。ところどころ鉄で補強してある(現在のもの)。
その先で道が2つに分かれていた。右の遺構の多い方へと向かった。
かなり大きな建物が残っている。天気が良すぎてカサマツの影が建物にかかっていて見にくい。
近づくと柵があって中には入れなかった。上から見るとこんなです。

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左が㉖セウェルス期のアーケード(Arcate Serviane)で、崖を補強しつつ宮殿の新棟のテラスを形成しているという。右は㉕セウェルス期の浴場施設(Terme Serviane)で、ドミティアヌスが計画して基礎部を着工し、セプティミウス・セウェルス帝の時代(2世紀末)に地上部分を完成したという。

小さな文字の説明があったが読んでいられない。このアーケードの中に何かがあったのではなく、上にテラスを造るために築かれた基礎部分だったのだ。
この間を奧に進むと㉗マクセンティウスの浴場(Terme di Massenzio、306-312年)があるらしい。
セウェルスのお風呂の外側はかなり複雑な構造だ。上に柵がある。ということはあの上に行くことができるわけだ。
㉕セウェルス期の浴場施設の横を通っていくとアカンサスがたくさん生えているところがあった。あのアカンサスが、こんなところに雑草の如く生い茂っているとは。
ようやく柵が左にそれるところまできた。この階段から先ほどの遺構の上に行けるだろう。
※参考文献
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)