お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年8月10日水曜日

1-14 スルタンアフメット・ジャーミイからアヤソフィアへ

スルタンアフメット・ジャミーイ(ブルーモスク)とアヤソフィアの間はスルタンアフメット公園がある。

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アヤソフィアは正面に見えて近そうだ。アヤソフィアはビザンティン時代、アギア・ソフィア聖堂というキリスト教会だったものを、1543年にオスマン朝が征服した時に、破壊せずにメフメット皇帝がモスクに改造したのだった。それでミナレットが4本ある。
そして、このように大ドームを載せた様式が、オスマン朝のモスクへと受け継がれていく。
16年ぶりに見たアヤソフィアは、赤い色がかなり褪せていた。ここからは巨大ドームとその下部に並んだ窓がよく見える。ここはロンデル窓だろうか。
公園までの通路を歩いていると、小さなドームと煙突が並んだ建物があった。トプカプの厨房に似ている。
台所か?
いや、向こうの建物がスルタンアフメット廟やから台所ではないと思う
一体なんだろう?
ここの窓もロンデル窓だが、板ガラスが入っている。形も円ではないので、スルタンアフメット・ジャーミイのものよりも時代が下がるものだろう。
道路に出たところでスィミット売りの屋台があったので、小腹もすいたことだし買ってみた。1TL。焼きたてではなかったが、弾力があって美味しかった。
スルタンアフメット・ジャーミイを振り返る。まだミナレットは4本しか見えない。
『建築巡礼17イスタンブール』は、四方に半ドームを従えてピラミッド状に盛り上がるドーム複合体は(中央ドームの径23.5m、頂高43m)、全体が明るい灰色であり、バットレス等の構造体は強調されることなく、全体に重量感を感じさせない。またシルエットも線の細いものとなっており、6基のミナレットとともに、むしろ繊細さを感じさせるという。
アヤソフィアは東西に半ドームがあるが、ブルーモスクは四方に半ドームがあるので、どの面から見てもほぼ同じ外観だ。
そして気になっていたこの建物。どうもスルタンアフメット廟の右に小さなドームのある建物があって、その間に通路もあるようだ。小さな建物は何だろう。モスクなら小さくてもミナレットが1本あるので、モスクではなく墓廟かも。それにしても窓に錆が出て保存状態の悪い建物だ。
先ほどの厨房のようなものは、この小さな建物に外壁がくっついている。厨房だとするとかなり規模の大きなもののようだが、墓廟に厨房が必要とは思えない。 
ツートーンカラーのカラスが木に留まっていた。
ハセキ・ヒュッレム・ハマムは皇妃ハセキ・ヒュッレム(ロクセラーナ)の命でミマール・シナンが造ったハマム(浴場)。修復中なのか、防護壁があって、ドームしか見えない。
みんなハマムの横を通ってアヤソフィアへ向かっていく。ここにもスィミット売りがいる。それぞれに味が違うのかな。
ハマムの端。正方形・八角形・ドームと、移行していく様子がわかる建物だ。このようにハマムが左右対称なのは男湯と女湯があるからだ。
やっぱりハマムもロンデル窓だが新しそうで、先ほどの窓同様に尖った円形。ミマール・シナンの時代はどんな窓だったのだろう。
ここまで来てやっとスルタンアフメット・ジャーミイのミナレットが6基見えた。この涼しくもない噴水が恨めしい。
同書は、シナンの時代、オスマン建築は巨大な量塊として重々しく、帝国の権威を象徴するように堂々と聳え、壮麗さを強調していた。しかし、ここに見るように、17世紀のオスマン建築は華麗ではあるが、力強さに欠け、構造よりも装飾に意識が注がれるようになる。帝国自体が転機を迎えたように、その建築も一つの曲がり角を迎えたと言えようという。
近道もあったが、ぬかるんでいたので回り道をした。妙な刈り込みをしたモミノキのところで通路はこちらにカーブしている。
※参考文献
「建築巡礼17 イスタンブール」(日高健一郎・谷水潤 1990年 丸善株式会社)