お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2012年9月25日火曜日
玉門関2 小さな丘から周囲を眺める
『歴史アルバム 万里の長城』は、もし古関に登れるならば古代への想像、遠望がかない、四周に沼沢が見られ、溝穴が縦横にあり、長城は延々と延び、烽燧がそそり立ち、胡楊は空へ伸び、泉水は青緑に湧きでるという。
古漢は立入禁止なので、北側にある丘から四方を眺めてみよう。
北側は平らで春には草原だったようで、一面が枯れ草に覆われている。
左の遠くの方に白いものが見えるのでズームしていくと、水辺に白いものがある。塩だろうか。
その手前には川のように細い流れ。
川らしきものは東へと続いている。
川、枯れ野と近くに視線を移していくと、青い草と白いものが浮かんだ水があった。湿地のようになっていて、2、3種類の鳥がいたりした。
後で史さんに聞くと、やっぱり塩で、ずっと東にある河倉城でお土産として売っているのだそう。
北側一帯は低地になっているようだ。
ここから湧き出た水は、疏勒河に流れ込んでいます
塩分の少ない水も出ているのだろう。
遺跡にあった「玉門関周辺遺址分布図」で疏勒河の位置がわかるが、その向こうの山脈の名称が読めない。
玉門関の北側に見えているのは、洋水海子という湿地帯だろう。川らしきものはその一部の湧き水で、疏勒河ではなさそうだ。
湧き水の向こうの地形も気になる。クチャ郊外で見たヤルダンに似ている。ヤルダンは、ゴビ灘の岩山が風食で削られたものをいう。
目を東に向けるに従って、平らだった遠方に山脈が見えて来た。
一方草原とヤルダン地形の間には、湧き水が見えなくなった。
東側は山は低い壁のようになり、枯れ野は続いている。
手前に2つ見える丘は版築の建物跡かな。
ただの土の盛り上がりだろうか。
グーグルアースで見ると、このようなコブのようなものはたくさんあるので、自然の起伏だろう。
それよりも、玉門関の右側に大きな四角形が見えるものの方が、人の手で造られたもののような気がする。これが溝穴?
そして南には玉門関。
石窟というものは、人が生活しなくてはならないので、川に沿った崖に拓かれるという。
大泉河沿いに敦煌莫高窟、堂河に沿って西千仏洞、ムザルト河北岸にキジル石窟、確かに石窟のあるところには川が流れている。
また、陽関址は現在はただのゴビ灘だが、その東にはオアシスの緑があったのを、10年前に見学したので、やはり水の近くにあったことは知っていた。
それについてはこちら
しかし、地図で見ると玉門関はゴビ灘にある。どのように玉門関まで水を運んでいたのだろうと不思議に思っていた。その謎がやっと解けた。玉門関の近くには水があったのだ。
グーグルアースで玉門関を中央にして見ると、確かに四周に沼沢が見られる。
そして、河のように見えた洋水海子の湧き水は緑色に写っている。泉水は青緑に湧きでるという言葉そのままだ。
しかし、長城はこの小さな丘からは見えなかった。
同書は、玉門関はまたの名を小方盤城という。
近代に至ると1907年、スタインが関城北面の遠くない所で廃墟の中から多くの漢簡を発掘し、簡の内容から小方盤城は玉門関であることがわかった。
小方盤城ははたして玉門関なのか?近年、歴史・考古の専門家はこれに疑義をだしている。その疑問の要点は、
1.小方盤城は非常に小さく、関所、税関の規模としては小さすぎる。
2.この城は”玉門都尉府”とされており、関城は西へ20㎞の馬圏湾になければならない。
3.この城は後漢の玉門都尉所轄の玉門関である。前漢の玉門関の置かれた所は西の長城の終点であるべきだ。
ただ、確実な関城遺跡が見つかっていないので、小方盤城は暫定の玉門関とすべきである。これは敦煌考古研究中のまた一つの難解な足跡であるという。
あれま、ずっと見たいと思っていたこの遺跡は、玉門関ではないかも知れないのか。
※参考文献
「歴史アルバム 万里の長城 巨龍の謎を追う」 長城小站編 馮暁佳訳 2008年 恒文社
「NHKスペシャル 文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 NHK出版