お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年8月15日木曜日

ペロポネソス半島2 コリントス遺跡8 アポロン神殿


コリントス遺跡に行きたいと思うようになったきっかけは、何と言ってもアポロン神殿だった。
それは、コリントスのアポロン神殿が、ドラムではなく、石を丸彫りにした柱(一石柱)だということを知ったからだった。何故一石柱かというと、元々ギリシアの神殿は木柱でできていて、それを石造にした時に、木柱のように一本の柱を削り出したから。それに興味を惹かれた。
しかし、いつものことながら、それがどの本に書かれていたのか、見付けることができない。

大きな地図で見る

遺跡の入口から出口付近まで見学した後に、様々な角度からアポロン神殿を目にしながら、ここからなら神殿の丘に登ることができるだろうかと行ってみてはロープに阻まれるということを繰り返した。
結局そのアポロン神殿へは、北西商店街(下写真の松の木の左右にのびる)の向こうに続く、博物館との間の道を通ってしか行けなかった。
余談だが、捕虜のファサードの左手には、下の方にトリグリフが等間隔で並んだアーキトレーヴが見えている。
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、商業都市として早くから豊かな繁栄を築き上げたコリントスは、建築の技術や様式においても先駆的な役割を果たした。町の中心にあるアゴラ(広場)に隣接して建てられたアポロン神殿は、全体が石造の最も初期の作例で、ドーリス式の典型としてその後のギリシア神殿に規範を与えた。
石灰岩の円柱は柱頭を除いて単材でつくられており、西側正面の5本と南側の2本が残ってアーキトレーヴの一部を支えている。
アルカイック期らしくずんくりとしているが、実際は柱身のエンタシス(弓形の膨らみ)がほとんどなく直線的で、柱頭のエキヌスの膨らみも控えめで、この時代の作品としては洗練された感じを受けるという。

『ギリシア美術紀行』は、西正面5本とそれに続く南側の2本の柱だけを残すコリントスのアポロン神殿は、ケルキュラのアルテミス神殿に次ぐ時代、前6世紀中葉に建設された、最も古いドーリス式神殿の一つである。アルカイク時代の定型に至るその方向を最初に示唆した神殿ということもできるという。
ずんぐりしているが力強い柱だった。
上部構造は、エンタブラチュアの下半分、エピステュリオン(アーキトレーヴ)だけしか残っていない。
テラス状の台地に一際高く位置づけられた4段の基段をもち、ステュバテスは21.49X58.82m、6X15柱、正面側面の比2対5、東西に長いアルカイク神殿特有のプランをもつ。
周柱廊は、ケルキュラのそれと異なり、正面で1.5柱間隔、側面で1柱間隔という普通の規模であるが、プラン上で説明のつかないことが2つある。プロナオスよりもオピストドモスの奥行が大きいこと、それに続く4柱の西の間の存在である。この部屋はアテナイのパルテノン神殿の先行例として説明されているものの、その用途はパルテノン共々不明である。1神殿で2柱の神々の祭儀をするために、東の間(主室)と異なった神の像を安置したのかどうか、あるいは単なる金庫代わりの役目を果たしていたのか難しい問題であるという。
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、前後にプロナオスとオピストドモスを配し、東西方向に向かって開く二つのナオスが特徴的である。ここでは西神室にも神像が納められていたようで、二つの広間を区切る隔壁の前に台座が発見されている。ナオスの側壁を広間を延長したプロナオスとオピストドモスの壁端部にはアンタエ(壁端柱)がつき、それぞれ2本の円柱を挟んで、イン・アンティス型の前柱廊を形成しているという。
ひょっとすると、現在ではアポロン神殿と呼ばれているが、古代ギリシア時代には、アポロンともう1柱の神を祀る神殿だったのかも。それならば、西神室にはアポロンの双子とされるアルテミスが祀られていたのだろうか。 
1:プロナオス(前室)、2:ナオス、ケラ(神室)、3:オピストドモス(後室)
しかし、ローマ時代には、神殿は倒壊して柱は現在見られるような7本だけになっていたらしい。
床面は既に湾曲をもち、東西面で中央が2㎝高くなっているという。
現在は1段目がほぼ地面すれすれになっているために、基壇(クレピス)は3段に見える。
最も特徴的なのは今も残るずんぐりした一石柱(モノリトス)である。高さ約6mで基部直径の4.15倍という比は他に例のないものであり、それをさらに強調しているのが大きく張り出した柱頭エキノスの部分であるという。
場所によっては、4段目が復元されずに、四角い礎石のように見えたりしている。
モノリトスの円柱の上にエキノス、そしてその上にアバクスと呼ばれる四角い板があるが、よく落ちずにのっているものだ。そういえば、モノリトスもずれずに床面(ステュロバテス)にのっている。
オリンピアのゼウス神殿近くで見かけたように、枘に四角い青銅の金具を取り付けて固定するということをすでに行っていたのだろうか。
オリンピアのゼウス神殿については後日。
無残に転がった円柱。
「世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック」は、また、倒れたままになっている石材表面には、仕上げや補修のために塗られたストゥッコの痕跡が残っているという。
しかし、時間を超過しているため、円柱をじっくりと見る余裕がなかった。
西側は円柱が6本だけで幅は狭く、その割に側面は長い。
神殿の幅が広くできないのは、初期の教会堂と同じ理由からではないだろうか、そんな風に感じた。それは、梁が木材の場合、木の高さという制限があるため、ある程度の長さにしかできないということだ。
全体が石造なら、石材の梁は木材の場合よりも短くしか取れなかったのでは。
東の正面側より。
ローマ時代の平面図にあるような敷石の列が、幅の狭さを強調していて、ギリシア時代のナオスやプロナオスなどといった部屋の仕切りがよくわからなかった。
柱の中央部から次の柱の中央部までの長さを柱間というが、これが石造のアーキトレーヴや梁の長さの限界ではなかっただろうか。
南側面より。
やはり円柱は間近で見上げるのが一番。だからといって、何時までも柱を眺めているわけにはいかなかった。
アポロン神殿を最後に見たために、入口から出ることになった。タクシーは10時20分に出口で待っていることになっているが、すでに28分。遺跡の柵に沿って出口の方に急ぎながらも、別の遺構があるので写真を撮りながら歩いた。
その遺構は北のアゴラで、やはり一定の区画をもった店舗が並んでいた。
コリントスの遺跡がローマ時代のものとしても、ギリシア時代のアポロン神殿は他よりも高いところに建てられている。
『世界古代文明誌』は、いにしえのコリントスの輝かしい記念物は、これらの巨大なドーリス式の円柱である。これらはギリシア最古の遺跡のひとつである前6世紀のアポロン神殿の一部である。遺跡の発掘によって前7世紀にさかのぼる壁画の漆喰片が発見され、この神殿が以前にあった建物に取って代わったことを示しているという。
その前7世紀の建物も、高台に建てられているということは、神殿だったに違いない。
それは木造、土壁だったのではないだろうか。

アテネからは、コリントスへの半日観光のバスが週2回出ているが、アクロコリントスを含むものはない。それでホテルの人に頼んで、前日にタクシーをチャーターしてもらった。
しかし、その時に時間まで聞かなかったため、運転手のジョージさんが朝ホテルに現れて、「これから4時間はあなたたちのものだ」と言った時には驚いた。往復だけで2時間はかかるのに。
そして、コリントス遺跡で10分ほど超過してしまった。ジョージさんは、出口付近のカフェで冷たい水を買って待ってくれていた。

    コリントス遺跡7 レカイオン界隈← →コリントス遺跡9 アクロコリントス1

関連項目

コリントス遺跡6 中央アゴラ
コリントス遺跡5 神殿E(オクタビアヌスの神殿)
コリントス遺跡4 博物館3
コリントス遺跡3 博物館2
コリントス遺跡2 博物館1
コリントス遺跡1 グラウケの泉と神殿址
ペロポネソス半島1 コリントス運河


※参考文献
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「ヴィジュアル版 世界古代文明誌」 ジョン・ヘイウッド 監訳者小林雅夫 1998年 原書房 
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館