お知らせ

イラン・フランス南西部のオクシタニー地方の旅行記に続いて、南イタリアの旅に入りました。
その中で気になるものについては、忘れへんうちにに記事を載せていきます。

2013年8月19日月曜日

ペロポネソス半島2 コリントス遺跡9 アクロコリントス1


コリントス遺跡についての本を読んでいると、遺跡南方の山の上にもアクロコリントスという遺跡があることがわかってきた。
『ギリシア都市の歩き方』は、ローマ帝政時代の3世紀半ばのヘルリア族、4世紀末には、西ゴート族のアラリックに征服され、略奪を蒙る。さらに、初期ビザンティン時代の522年と551年には巨大地震に見舞われ、コリントスは、キリスト教の多数の大バシリカ聖堂ともども瓦礫の山と化す。その少し後、未だに廃墟に暮らしていた住民も、度重なるスラブ人の侵入に不安を感じ、コリントスを捨て去り、アクロコリントスに生活の場を移す。
しかし、10世紀には、再度かつてのコリントスのフォールムの周囲に集落が形成され、11世紀には最後の繁栄ともいえる活況を呈するようになる。しかし、1147年にノルマン人による攻撃を受け、略奪を蒙る。その後も、フランク人(1212年)、アッキアイオーリ家(1358年)、パレオロゴス朝(1430年)と占拠略奪が続く。その住民のほとんどは、再度アクロコリントスに居を移すことになる。
これがメフメト2世がトルコ軍を伴い攻め込む前夜のコリントスである。
その後も、コリントスの支配者は二転三転し、1612年にはマルタ騎士団、1687年にはヴェネツィア、そして1715年には再度トルコ人の手に落ちる。
トルコ軍精鋭の攻撃に三ヵ月も堪えることができたのは、むしろ、その背後に聳える標高575mの山塊アクロコリントスである。その頂上には、ビザンティン時代およびフランク時代に三重の城壁が築かれ、それを、力を頼りに攻め落とすことは不可能であることを示している。つまり、兵糧攻めか、あるいは他の戦いでの戦勝を理由に条約によって割譲させるしか方法はないのである。1687年にヴェネツィアはトルコから、そして1715年にはもトルコは再度ヴェネツィアから割譲される。
時の勢力があのような峨々たる山塊にあれほど大規模な城砦都市を築くほど、アクロコリントスは重要なのであろうか。山塊は、ペロポネソス半島の北の海岸を辿る道路と同半島の内陸に入っていく道路とが分かれる位置に立っている。それならば、ペロポネソス半島に勢力を広げようとする勢力にとって、アクロコリントスは、まさにペロポネソス半島への入り口の要塞に相当するからであると考えられるという。
こんなにいろんな民族が入れ替わり立ち替わり立て籠もった城砦都市が近くにあるのなら、ついでに行ってみたいと思うようになったが、古代コリントス遺跡のあるのが、限りなく海抜0mに近い平地なのに、その背後に聳える岩山は標高575mもあるとは。

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歩いて登るには時間がかかりそうだが、自動車道路がついている。コリントス遺跡を見学後、ジョージさんに乗せていってもらう。
駐車場に着くとジョージさんは言った、40分後にここに戻ってね
40分でアフロディテ神殿まで行って戻れますか?
40分で大丈夫!
それは若い人の足での話ではないのか・・・

まずは三重の城門をくぐらなければ。

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頼りは『ミシュラン・グリーンガイドギリシア』の地図。
同書は、岩山にまぎれて、まるで宙に浮いて見えるアクロコリントス遺跡は、その広がりと周囲を取り囲む風景の荒涼とした壮観さ、それにそこから見下ろす雄大なパノラマのために、世界で最も印象的な場所になっているという。
コリントス遺跡の出口で買ったその名も『THE ACROCORINTH』には、上記の『ギリシア都市の歩き方』以前のアクロコリントスの歴史が記されている。
最初期の定住は、アクロコリントスの東山麓で、新石器時代(前3000年頃)。周辺地域には少なくとも青銅器時代の8つの場所が確認されている。それらの内で最も重要なのはコラコウで、ミケーネ時代にはコリントスよりも重要だった。
前8世紀、コリントスは大繁栄の時代に入った。
前7世紀後半-6世紀初頭、僭主キスペーリスの時代にはすでに要塞化されていた。それはコリントスの最初の商業的な繁栄期に当たり、要塞化の目的は、敵の侵入時の住民の避難と財産を隠す場所の確保だった。古代の要塞は今でも残っているが、それは主にコリントスが再び繁栄した前4世紀のものだ。
前338年、マケドニアのフィリッポスⅡがカイロネイアでギリシア同盟を打ち負かし、ギリシア全土の政治上のそして軍事上の統治者となった。コリントスは約100年の間マケドニアの統治下にあった。マケドニアの守備隊は前243年にアラトスによってアクロコリントスから駆逐された。前44年にユリウス・カエサルによって再建された。アクロコリントスの要塞も古代と同じ材料で作られたという。
駐車場から第1城門は近い。その両側に連なる第1城壁。上奥には第2城壁が、そして第3城壁も上端だけが見えている。
地図の濠と記されているのは、左下に斜めになっている箇所だろう。
① 第1城門 14世紀
アクロコリントスの入口も兼ねているが、無料ということで、係員はいない。
『THE ACROCORINTH』は、両側を傾斜のある扶壁で挟まれ、ビザンティン時代の大理石の石板を埋め込んだアーチ状の凹みが載っているという。
入ると第2城門への斜路と第2城門しか見えない。

② 第2城門 現状は14世紀初め
第2城門の築造年代の描かれた説明板
左端の壁がの一番下がヴェネツィア時代というのが不思議な気もするが、古い時代の下層部を修復したということだろう。
城壁の中に広がりは感じられたが、すでに向こうには第3城壁が迫っている。
③ 第3城門
『ミシュラン・グリーンガイドギリシア』は、この城門は長方形の2つの強力な塔で両側を挟まれている。右側の塔はその大部分が古代(前4世紀)に造られたもので、左側の塔はビザンティン時代のものである。どちらの幕壁も長方形の塔で補強されており、その起源は主としてビザンティン時代に遡るという。
向かって右の塔は古そうだった。
たくさん穴があいているのは矢狭間?
第2城門から第3城門の間は袋状の空間で、時は侵入しても逃げ場がない。
そして第3城門を突破しようとすると、あちこちから矢が射られる。
④ ドンジョン 
城門をくぐって右側。岩塊の上に修復中の建造物。
ドンジョンは仏語で、日本語では天守閣と訳されている。
進行方向は左。
⑤ 教会
坂を歩いていると、左手に見えて来たが、頂上に登った後で見学することにしよう。
もう少し上の左側。

⑥ モスク 
ここも後ほど。
道は曲がって再びドンジョンが見えて来た。
やがて右手に城壁が近づいてきて、修復中の箇所があった。上図の出っ張った塔の辺りかな。
第3城門が右向こうに見えている。
次に左側の階段を登っていく。
そこには平たい開けた空間があった。

⑦ ミナレット
オスマン時代に造られたものだろうが、ペンシル型ではなく、ずんぐりしている。
『THE ACROCORINTH』は、スルタン・マフムドⅡ・モスクの唯一残ったミナレット。1668年に訪れたトルコの旅行者エヴリヤ・チェレプの記述が残っている。平面は八角形、北側の尖頭アーチの小さな入口を入ると螺旋階段があると。ヴェネツィア時代には聖パウロ教会に転用されていたという。
マフムドⅡは、1808-1839年の間在位したスルタンなので、モスクの名前はずっと後の時代に付けられたのだろう。
道はミナレットの向こうの木からカーブして上に向かっていた。
⑧ 貯水池
かな? 時代不明
⑨倉庫跡
ヴェネツィア時代の特徴的な赤いモルタルを使った狭い建物という。
進路は上へと続いている。
頂上からの話し声が聞こえてきた。頂上からの360度の展望ももうすぐ!

     コリントス遺跡8 アポロン神殿← →コリントス遺跡10 アクロコリントス2


関連項目
コリントス遺跡7 レカイオン界隈
コリントス遺跡6 中央アゴラ
コリントス遺跡5 E神殿(オクタビアヌスの神殿)
コリントス遺跡4 博物館3
コリントス遺跡3 博物館2

コリントス遺跡2 博物館1
コリントス遺跡1 グラウケの泉と神殿址
ペロポネソス半島1 コリントス運河

※参考文献
「ギリシア都市の歩き方」 勝又俊雄 2000年 角川書店
「ミシュラン・グリーンガイドギリシア」 1993年 実業之日本社 
「THE ACROCORINTH」 Anastasia Koumoussi 2010年