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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年8月26日月曜日

ペロポネソス半島3 エピダウロス2 アスクレピオスの神域


エピダウロスは治癒の神アスクレピオスの神域で、4年に1回、イストミア祭の9日後にアスクレピエイア祭が開催され、運動競技や劇の競演も行われていた(『古代ギリシア遺跡事典』より)という。
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エピダウロスに現在残されている主な遺構は、アスクレピオスの神域への門、幾つかの神殿、そしてアスクレピエイア祭に使用された建物群になる。
広大な土地にたくさんの遺構があるので、総てを見て廻ることはできなかった。



劇場から博物館、そして神域へと木々の中を下りて行くと、広々とした遺構がある。それが①宿泊所だ。

① カタゴゲイオン 大規模な宿泊所 前4世紀 76X76m 
『古代ギリシア遺跡事典』は、この二階建ての宿舎は、1辺が76mの正方形を呈し、内部にはドーリス式の列柱が並ぶ4つの中庭に面して、全部で160もの部屋が用意されていた。これは、前4世紀に、参詣者の増加に対処するために建築されたものと考えられているという。
遺跡地図のプランを見ると4つの中庭に面した部屋の並ぶ建物というのは分かるが、実際に遺構を前にして、あちこちから眺めていてもよくわからなかった。
平面図だけで、今では石材が散らばったままになっているのではないかとさえ思う。
『CORINTHIA-ARGOLIDA』の上空からの写真で、この遺構が田の字形になっていることがわかった。ちょっとした高台があれば、全景を見渡すことができたのに。


② 浴場 ヘレニズム時代
『古代ギリシア遺跡事典』は、ギリシア式の小さなバスタブなどが残っているというが、さっぱりわからなかった。
ローマの浴場のように熱浴室・温浴室・冷浴室などといったものはなく、聖職者だったか、競技に出場する選手だったかの身を清める場であったとガイドのジョージさんは言った。
『CORINTHIA-ARGOLIDA』は、ローマ時代に2つのプールと泉水場が付け加えられたという。

③ ギュムナシオン 76X70m 前4世紀または前3世紀初頭
『古代ギリシア遺跡事典』は、礎部が石灰岩の切石で築かれた76X70mの大きな建物は、一般にはギュムナシオンと呼ばれているが、実際には参詣者に犠牲獣の肉が分配される宴会場だったらしい。内部は初めドーリス式の列柱によって囲まれた中庭になっていたが、ローマ時代に焼煉瓦製の音楽堂が築かれてしまったため、本来の面影はあまりとどめていないという。
こちらも広大な遺構だった。

④ オデイオン(音楽堂) 前2世紀
その上、この焼成レンガで造られたというオデイオンの遺構が、灰色の丘のように視界と理解を妨げているのだった。
それにしても、奥の白い建物遺構が気になるなあ。
説明板には上から見た写真があった。これでギュムナシオンもオデオンも平面がわかる。
そして、同じく説明板にあった平面図。図右下の水色の部分が、遺跡のどこからでも見える、白く高い遺構の正体だった。
ギュムナシオンのプロピュロン(門)だったのか。
『CORINTHIA-ARGOLIDA』は、前2世紀、中庭にオデイオンが造られた時に、ヒュギエイア神殿に組み込まれたという。
三角破風の下とトリグリフの下には丸い突起が並んでいる。これは他でも見かけて不思議に思っていた。
帰国後、グッタエ(露玉装飾)付きの小板(ムトゥルス)であることを知った。
それについては後日。

⑤ スタディオン
『古代ギリシア遺跡事典』は、両方の斜面には、南側に14列、北側に22列の石造の客席が設けられていた。スタートとゴールのラインからは、エピダウロスにおける1スタディオンの長さが、オリュンピアより短くデルフィよりは長い約181mだったことが分かる。
エピダウロスでは4年に1回、イストミア祭の9日後にアスクレピエイア祭が開催され、運動競技や劇の競演も行われていという。
両側を斜面にして地面を掘り込んで造られているので、客席がその斜面に沿って、無理なく設けられている。

⑥ アスクレピオス神殿 前370年頃 11.76X22.06m
『古代ギリシア遺跡事典』は、長辺11本短辺6本の柱をめぐらすドーリス式神殿である。テオドトスが設計したこの神殿は、4年あまりをかけて完成された。正面には、やはり石敷きの斜路が設置されているという。
ロープがあるので、遠くから眺めて、おそらく白い列柱廊の手前の灰色の遺跡だろうと思う。人の腰辺りまでの石板が、数枚並んでいる。
ギリシア神殿は東面が正面で、正面に斜路が付けられているので、この写真では右に当たり、見えない。
エピダウロスの遺跡が、アスクレピオスの神域のはずなのに、最も重要と思われるその神殿があまりにもおろそかにされているのでは。
これが神殿の想像復元図(『CORINTHIA-ARGOLIDA』より)。
『ギリシア美術紀行』は、新しい時代精神は美術史の領域でもはっきりした形をとって現れる。エピダウロスのアスクレピオス神殿は神殿史のみならず、彫刻史の上でも前4世紀、すなわち後期古典時代の開始を告げる重要な建物である。
前5世紀の後半、パルテノンを中心としたドーリス式神殿史はバッサイのアポロン神殿に至ってその発展の極に達し、それと同時に様々な矛盾対立が露呈し始めていた。アスクレピオス神殿の神殿史上の位置は、ヘレニズム時代に徹底的に遂行されることになる、神殿の立面図や平面図に顕現する無機的性格、厳密に計算された幾何学的な合理性の追求等の造形精神が初めて見られる点にある。
長短の比が1対1.96と非常にずんぐりした、しかも小型のプランをもっている。神殿に有機的な生命を与えていた床の湾曲は失なっている。東西が圧縮されたため内室は一つの空間だけで、オピストドモスさえ消失してしまっている。東正面の柱廊が2柱間、他の3面の2倍以上の幅をもち、しかもプロナオスの空間も大きいため、神殿の方向性がギリシアの神殿ではこれ以上考えられないほどに、東を強調しているという。
全く同じようなことが彫刻史に占めるこの神殿の彫刻遺品に関しても当てはまる。破風(東の主題「イリウペルシス」、西の主題「アマゾノマキア」)やアクロテリア(ニケ像や騎馬女性像)の彫刻群は、アテナイのアクロポリス山上で見た豊麗様式の彫刻群と感覚的に異質な世界-形態は似ているようでも精神が異なることでも、あるいはなにか生々しい感情が入り始めたとでもいえばよいのであろうか-を物語っているという。
同書によれば、彫刻群はアテネ考古学博物館に収蔵されているらしい。
上部構造がエピダウロス考古博物館に展示されていた。それについては後日忘れへんうちににて。

⑦ 列柱館 アバトン
『古代ギリシア遺跡事典』は、長さ約71mのの細長いイオニア式の列柱館がある。これは、夢のなかで治療方法を神に啓示してもらうために参詣者が眠ったアバトン(関係者以外は立ち入り禁止の聖域)であり、もとは東半分だけだったが、後に西側がほぼ倍の長さになるように増築されたものであるという。
横長のため、遠くからでないと全体が入らない。しかし、遠くからでも円柱が一列に並んで目立つ。
神域の本尊を祀るアスクレピオス神殿の方が小さく、アバトンが大きく目立つというのは、本尊にお参りするよりも、治療優先になってきたということだろう。
平面図があったがいまいちわからなかった。
東側には腰壁があって、それが斜格子の高浮彫になっている。
西側に残る列柱。
イオニア式柱頭の上に木のアーキトレーヴが載っている。神殿でもないので、上は木造だったのかも。

⑧ 泉
アバトンの西側は一階分くらい低くなっていて、『ギリシア美術紀行』の図では泉になっている。霊験あらたかな水が出ていたのだろうか。


    エピダウロス1 大劇場← →エピダウロス3 考古博物館に神殿の上部構造


関連項目
エピダウロス4 トロス
ポンペイでスタビア浴場を見学したかった理由

※参考文献
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「CORINTHIA-ARGOLIDA」 Elsi Spathari 2010年 ESPEROS EDITIONS
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社