お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年9月25日水曜日

ペロポネソス半島5 オリンピア2 オリンピック競技のための施設



日本のように起伏の多いギリシアにあっては、オリンピアは平たい土地に広がる遺跡という印象を持った。

大きな地図で見る

松林をしばらく歩いて、抜けた所はすでにギュムナシオンの途中の列柱廊だった。
知らず知らずの内に、ギュムナシオンの列柱廊跡の上を通ってきたようだ。

1 ギュムナシオン 前2世紀
中庭から建物で唯一残った東列柱廊を眺める。2列の柱列の向こうに壁があった。
当時は中庭を四方から列柱廊が囲んでいたので、外からは中で何をしているか見えなかった。
ギュムナシオンの南の端を遠望する。
『ギリシア美術紀行』は、南北に長い中庭、すなわち露天の体育練習場(南北の長さ220m)-幅跳び、槍投げおよび円盤投げなどのフィールド競技用-の四方を列柱廊(ストア)が囲んでいた。重要だったのは中庭側にドーリス式列柱を配した二廊式の東列柱廊で、その晴雨兼用の競争路の長さはスタディオン31の本競争路のそれに等しい長さを必要としたため192.27mに作られていた。
この施設の東南隅にヘレニズム建築上最美のものと思われるコリントス式前後4柱の三廊式玄関間(プロピュライア、前2世紀末)が付属していたという。

奥の柱の林立しているのはパライストラなので、プロピュライアはコリントス式柱頭が並んだ辺りだろう。
南北の通りから眺めたプロピュライアの想像復元図(『オリンピアとオリンピック競技会』より)

2 パライストラ 前3世紀
同書は、レスリング、ボクシング、パンクラティオンなどの角技用の練習場。4辺にドーリス式列柱廊をもつ中庭(南北41.42X41.52m)をたくさんの部屋が四角に取り囲んでいる。(南北66.75X66.35m)。中庭を廻る1辺19本のドーリス式柱は柱身半ばで切れる二石柱で、しかも廊に面した下半分には縦溝が施されていない。たくさんの部屋は雨天用練習場のほか、角技に必要だった更衣室、塗油室、浴室もしくは垢落砂室、さらに四辺にベンチが置かれていたことから青少年の弁論や哲学の教場になったとも考えられる北側中央の列柱の間などによって構成されていたという。
東側の入口から入っていく。ここには円柱ではなく角柱も見られる。
コリントス遺跡のアポロン神殿は一石柱(モノリトス)だったが、ここでは、柱の半分の位置で継いだ二石柱が並んでいる。
人影もなく、柱とその影が整然と並んでいた。この日は朝から快晴。遺跡はやっぱり青空の下でみたいものだ。暑いけれど・・・
この中庭も広大。
たくさんの部屋がこの中庭を取り囲んでいるというのは、中にいても想像できない。
こんな時、説明板の平面図は有り難い。
しかし想像復元図(『オリンピアとオリンピック競技会』より)はもっと有り難い。

11 レオニダイオン  前330年
ナクソス島のレオニダスが建て、聖域への公的な来訪者が使った(パンフレットより)。
ガイドのアンジェロさんは、有力者だけが泊まれる豪華ホテルと言っていたが。
同書は、島のような花壇を四方対称的に配置した巨大な水盤をもつ中庭、それを取り巻くドーリス式列柱廊、四辺に設けられた多数の客室、外側全体を飾る華麗なイオニア式列柱廊という。
遠望するにとどまった。
上空より見る(『オリンピアとオリンピック競技会』より)と、中庭の様子がよくわかる(右下)。
中庭はローマ時代(前1-後3世紀)に造られた(『OLYMPIA』より)。

30 スタディオンへの入口 長さ32.1、幅3.7、高さ4.45m 前1世紀後半(パンフレットは前3世紀末)
スタディオンとアルティスを区別すると共に、両者を結びつける通路という。
この穹窿天井はローマ時代のものか、ギリシア時代のものか?
ローマ時代なら、切石と赤い薄レンガを積み重ねた層が交互に積まれてるのでは。
両側の垂直だった壁が、ある高さの位置から前に迫り出しているのがわかる。
長い結界だったんだなあ。
このトンネルを通らずに上からやってきた人達。上を通れるなら、是非行ってみたい。

31 第3次スタディオン 前4世紀中葉
『オリンピアとオリンピック競技会』は、発掘調査により、オリンピアでは早くも前7世紀初めにスタディアムが存在していたと推定されている。最初のスタディアムは、トラックの距離が約200mの単なる平地にすぎなかったとみられている。前560年頃に南側の傾斜面が観客の座る場とされ、さらに前500年頃に西側の傾斜面も同様になった。初期のスタディアムは、現在のスタディアムの西方約75mに位置していた。スタート・ラインの脇に、ゼウスに捧げられた大祭壇が建立されていたと記されていることから、早い時期から運動競技と宗教が密接に結びついていたことがわかるという。
通路を出た所からスタディオンを眺める。
観客数の増加と神域の刷新に伴って、前470年頃にスタディアムは現在の場所に移され、規模が拡大した。オリンピア考古博物館に展示されている石灰岩のスタート・ラインの一部は、この年代に属している。われわれが今日見るスタディアムは発掘が終了した後に修復された前4世紀のスタディアムの姿であるという。
ロープが張ってあって入れない遺構もあるが、ここでは当時のスタート・ラインを踏んでも構わないらしい。右向こうの四角い区画が貴賓席。

スタディオンの南側には競馬場もあったらしい。競技会を行うところではどこでも、このような諸施設がセットになっていたということだ。

  オリンピア1 遺跡の最初はローマ浴場← →オリンピア3 フェイディアスの仕事場

関連項目

オリンピア12 オリンピアのトロスはフィリペイオン
オリンピア11 宝庫の軒飾り・棟飾り
オリンピア10 スタディオンの西に並ぶもの
オリンピア9 ヘラ神殿界隈
オリンピア8 博物館4 青銅の楯
オリンピア7 博物館3 ゼウス神殿のメトープ
オリンピア6 博物館2 ゼウス神殿破風の彫刻
オリンピア5 ゼウス神殿
オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物

※参考文献
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「オリンピアとオリンピック競技会」 ISMEME TRIANTI,PANOS VALAVANIS 2009年 Evangelia Chyti
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON