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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年9月4日水曜日

ペロポネソス半島4 ミケーネ2 ライオン門


ミノア時代にはなかった城壁が、ミケーネ時代には築かれるようになった。
『ギリシア美術紀行』は、ミュケナイ文化についてはいまだよく解明されていない点が多々あるが、前2千年紀初め、中期ヘラディック(MH)と共に、多分黒海およびカスピ海の北方を原住地とする印欧語族の一部族がギリシアの地に移住したこと、そして数百年後に巨大なミュケナイ文化の担い手となり、ついにはクレタ島をも支配したこと(前14世紀)、そしてこの民族が印欧語族のギリシア語を話すギリシア人で、後の所謂「ギリシア」文化の担い手と同じ民族であったことなどが現在明らかにされているという。

『古代ギリシア遺跡事典』は、現代のミケーネ(ミキネス)村を過ぎ、ハヴォス渓谷に沿って坂をのぼっていくと、まもなく目の前には中腹を堅固な城壁にとり巻かれたアクロポリスが迫ってくる。厚さが平均6m、総延長は約900mを計り、見る者に強い印象を与えずにはおかないという。
残念ながら曇りがちの日だったので、木のない山々を眺めながらやってきた者にとっては、ここも木のない丘の一つに過ぎなかった。雑草でも生えていれば、もっとメリハリのある景色だったのに。
同書は、城壁には不整形の巨石を積んで隙間に小石を挟む典型的なキクロペス様式のほかに、礫岩をブロック状に加工して、積み上げた切石積みの様式と、より小さな岩を隙間なく積んだ様式(ポリゴナル様式)とを識別することができる。切石積みは「ライオン門」の周辺で見られるが、これはキクロペス様式の城壁の表側を整えただけのもので、時期的にはミケーネ時代に属する。これに対して、小さな岩を積んだポリゴナル様式の部分は、ヘレニズム時代の補修の痕である。
ミケーネの城壁は、三段階にわたって拡張されたことが判明している。最初期の城壁は、前14世紀の中頃に岩盤の露頭を基礎として建設されたという。
この辺りが前14世紀中頃のキクロペス様式の壁か。 
ついで、前13世紀の中頃には、南西部分が大きく拡張され、円形墓域Aと後に祭祀センターとなる区域が城内にとり込まれた。さらに前13世紀の末近くになると、城壁はさらに北東方向に拡張され、このときに地下貯水槽も整備されたと考えられるという。
その頃には切石積みの城壁が築かれた。キクロペス様式の城壁を左に、ライオン門へと急ぐ。
遺跡のゲートから緩やかに湾曲する道をのぼっていくと、アクロポリスの正面玄関である「ライオン門」にいたる。門そのものは、4つの巨大な礫岩を組み合わせて構築されている。開口部の高さは3.1m、幅は底部で2.95m、上部で2.87mを計る。天井部の岩の上には、ミケーネ時代に固有の建築上の特徴である三角形の開口部が設けられている。「ライオン門」という通称は、この開口部を塞ぐように置かれた石灰岩の浮彫の意匠に由来しているという。
何故入口両側の壁の幅が左右対称になっていないのだろう。
この辺りが切石積み。ライオン門は、石板を2つ両側に立て、巨大な楣石を載せ、その上にライオンの石彫を載せている。
浮彫に表現されているのは、2つ並んだ祭壇を覆う板に前足をかけて伸び上がる、向かい合った2頭のライオンと、その間におかれた円柱であるという。
この部分は書物の図版では見ていたが、小さくてよく分からなかった。現地で見ると、円柱は下が細く上が太い。まるで、エヴァンスがコンクリートで復元したクレタのクノッソス宮殿の円柱のようだ。この円柱はミノア文明の影響だろうか。
また、ライオンには顔がない。顔がないのにどいしてライオンとわかったのだろう。
上の岩と柱頭の間の空間は狭い。この隙間はライオンの頭部には小さ過ぎるのでは、とライオン門の図版を見る度に思っていた。
やはり実物は見てみるものだ。それぞれの肩に穴が2つずつあいている。きっと頭部は別に作って、何かで固定していたのだろう。
『CORINTHIA-ARGOLIDA』は、前を向いた頭部はおそらく凍石製だったが、失われたという。ライオンの頭は円柱と岩の間にあったのではなく、前に出っ張っていたのだった。

そしてアーキトレーヴには4つの円の連珠文。この上には何が載せられていたのだろう。三角形の何かかな。
古代ギリシア遺跡事典』は、円柱は、宮殿の象徴と考えられているという。その上には何もなかったということかな。
これが祭壇か。ブロックのよう。
祭壇の上にはアーキトレーヴのような石板があり、その上にライオンの前肢と円柱がのっているのだが、その部分だけ石を迫り出す細工が見られる。
ライオンの四肢にも丸い穴がある。何が取り付けられていたのだろう。
「ライオン門」は、観音開きの木製の扉によって開閉されていた。敷居石に残された溝(現在は板に覆われて見ることができない)は、かつては戦車の轍と解釈されていたが、現在では排水のための施設だったことが明らかになっているという。
3枚の石板ではなく、1枚の岩を刳り抜いている。もう一方にも同じような細工があった。
門を入って左側の城壁には、四角い壁龕がある。
『CORINTHIA-ARGOLIDA』は、門を護る祠があったとされるという。
この城門は、2頭のライオンと、何かの神様という二重に守られていたのだった。
しかし、ミケーネは滅んでしまった。
『古代ギリシア遺跡事典』は、前1200年頃、ミケーネは他のミケーネ文明の諸王国の都と同様に、暴力的な破壊を受けて焼け落ちてしまう。アクロポリスへの居住や岩室墓への埋葬は継続され、有名な「戦士の壺」が示すように前12世紀の後半に物質文化の再興も見られるが、前11世紀にはミケーネ文明の文化要素は消えていくことになるという。
入って振り返るとライオンの裏側の三角岩には何の装飾もなかった。


           ミケーネ1 円形墓域B← →ミケーネ3 円形墓域A

関連項目
ミケーネ9 アトレウスの宝庫はトロス墓
ミケーネ8 博物館3 渦巻文は様々なものに
ミケーネ7 博物館2 土偶
ミケーネ6 博物館1 祭祀センターのフレスコ画
ミケーネ5 メガロン
ミケーネ4 アクロポリス

※参考文献
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「CORINTHIA-ARGOLIDA」 ELSI SPATHARI 2010年 HESPEROS EDITIONS