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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年9月17日木曜日

シャフリサブス4 ジャハンギール廟


ドルサオダット建築群の3:ハズレディ・イマーム・モスクの奥に4::ジャハンギール廟がある。

4 ジャハンギール廟
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、1376年にアミール・チムールの長男のジャハングルが亡くなり、チムール王朝のメンバーに相応しい大墓地の創製が目の前に現れた。そのためにシャフリサブスのドルス・ティリャヴァットの近くに25年間で巨大なドルス・シアダット「権力の容器」とか「威力のハウス」という大墓地が建てられた。アミール・チムールの2番目の息子もここで埋葬されている。しかし、現在まで大墓地コンプレックスの一つの方形ドームつきの廟しか残らなかった。この廟は巨大なアーチ型の表玄関の両側にあった廟の北部のもので、南部の廟は今まで残らなかった。ドルス・シアダットのアーチ型の表玄関はアク・サライ宮殿の入り口表玄関と比べられるぐらいの大きさであった。廟とモスクは市民の習慣でハズレディ・イマムという名で呼ばれていたという。
モスクとジャハンギール廟は別々のものではなかったのだ。
円錐のドームはいったい何角形の筒の上に載っているのだろう。
 その壁面はバンナーイ

小さな開口部から廟へ。このような出入口の常として、以前はここにドームがあったのだろう。その痕跡としてムカルナスなどが見られる。

見上げると、円筒形部分も円錐のドームも見えない。
その下には3つのムカルナスのあるイーワーンがあって、入口は一番北側。
内部はかなり狭い。
南側からドームを見上げるが、南西隅のムカルナスや、他のスキンチの煉瓦積みなどはわかるものの、ドームの様子はよくわからない。
正方形、八角形、十六角形となっているようなので、外の筒部は十六角形なのかも。
それにても、この横木は目障り。補強のためだとは思うが、建築当時は内側にドーム天井があって見えなかったのかな。

入口を入って西壁(正壁)を見上げると、ミフラーブの壁龕上部のみ、彩色があった。
唯一残った漆喰のムカルナスには青い絵が描かれている。
その下側にも青色だけの植物文やアラビア文字のフレスコ画
その下は幾何学文

北側のドーム移行部は漆喰がなくなっているので、どのように焼成レンガが積み重ねられているかを見ることができる。
スキンチは割合小さな平レンガを持ち送って1/4ドームにしている。
スキンチとスキンチの間には、同じ大きさのレンガを、角を立てて、下から1、2、3、4と出して十六角形の1辺にしている。
その拡大

忘れてはいけない。これがジャハンギールの墓石。実際には地下の同じ場所に棺があるのだが。
この廟はこの墓石一つ分の大きさしかないと言ってもよいくらいの小さく、天井の高い建物である。
他の2つイーワーンには開口部がなかったが、やはり墓室になっていて、このような石棺が置かれているのだろうか。ティムールの2番目の息子もこの地に葬られているということだし。

           シャフリサブス3 ハズレディ・イマーム・モスク
                            →シャフリサブス5 ティムールの棺

関連項目
シャフリサブス6 コク・グンバズ・モスク
シャフリサブス2 アク・サライ宮殿
シャフリサブス1 アク・サライ宮殿の門へ
ウズベキスタンのイーワーンの変遷
イーワーンの変遷

参考文献
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 アレクセイ・アラポフ 2010年