お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2015年11月25日水曜日
カラカルパクスタン1 アヤズ・カラ遺跡
ヒヴァへバスで移動。途中でカラカルパクスタンのカラに立ち寄るのが本日の行程。
ブハラはもとはステップ気候で、3年前はこんな緑はなかったという。
西へ向かうにつれ乾燥した土地になってくる。
道路工事が続いているので、移動に時間がかかる。山もなくなり、ただただ広い平原が広がっている。そんなところなので、中央分離帯もこんなに広い。
やがて、舗装道路もなくなって、ますますバスは揺れ、スピードも落ちてきた。
『旅行人ノート⑥』は、ホラズム地方はホラズム州を中心としたアムダリヤ川下流のデルタ地帯のことであり、今ではウズベキスタンとトルクメニスタンの2国に分離されている。
ここではアムダリヤ川の水を使った灌漑農業により、非常に早くから都市が発生し、以後現在に至るまで、マーワラー・アンナフルと呼ぶ、中央アジアのオアシス都市の中核となった。しかし同時に非常に乾燥した気候のため、川の流れの変化の度に、しばしば都市は消滅した。ホラズム人はもともとイラン系の定住民だったが、8世紀のアラブの侵入後イスラム化が進んだことと、11世紀頃からテュルク系遊牧民の支配を受けるようになったため、ヒヴァ・ハーン国の時代までに大半がテュルク化されてしまった。現在でも住民はウズベク、トルクメンなどといったテュルク系民族で占められるという。
ホラズムまたはホレズムと呼ばれる一帯の中にカラ(城)と呼ばれる遺跡が多く残るところがあり、そこをカラカルパクスタンというのだと思っていたが、カラは黒色、カルパクは先の尖った帽子で、スタンは土地です。黒い尖った帽子を被る人たちが住む土地という意味ですとガイドのマリカさんが教えてくれた。カラとは関係なかった。
長々とバスで移動して、やっと見えてきた前方の山にアヤズ・カラの遺跡があるという。
山の上に何か見えてきた。
山の上だけでなく、手前の丘の上にも遺跡がある。山肌も色彩豊か、遺跡も色とりどり。
アヤズ・カラについての本がなかなか見つからないので、検索してあるページに出会った。それは、古代世界の午後という素晴らしいホームページのなかのコラム春田晴郎氏論説「古代 ホラズムの「家」と「しもべ」」と古代ホラズム遺跡サイトの紹介で、リンク、引用フリーということなので、どちらもさせていただくことにした。
『古代世界の午後』さんは、Google Mapで確認した遺構の画像と簡単な解説、古代ホラズムの遺跡一覧を作成したという。その中にアヤズ・カラもある。
その上、David and Sue Richardson氏のThe Karakalpaksというサイトまで、労なくして知ることができ、有り難い限りである。
8.アヤズ・カラ1、 2
座標42.012491,61.028087
Scale200m、図面あり
右上城砦がアヤズ・カラ1.東西150m。前4世紀に建設され後1世紀 迄存 続。避難所として中世初期まで利用された。中央の丘の上の楕円(7-8世紀建設の要塞)とその西方へ伸びる回廊 の先にある宮殿跡(4世紀に建設)がアヤズ・カラ2.宮殿ではアフリーグ朝(Afrighid)の Bravik 王の貨幣が出土し、2度の火災で崩壊したが、6-7世紀に再度居住された跡があるとのこと(The Karakalpaksの記事はこちら)。
いつの頃からか、Google Eearthを添付できなくなっています。できるようになったら、その図と入れ替えます。
左手にユルタが見えてきた。
山の上の遺構は一列に並んでいて、城壁の一辺が見えているようだ。
城壁を通り過ぎてしまいそう。
右折すると次の一辺が現れた。こちらには一定間隔で並ぶ監視塔が残っている。
そしてユルタに到着。手前の境界にしている石の列の手前にたまった僅かな砂が風紋を作っていた。
ユネスコのAncient Khorezmに詳しい説明があった。
アヤズ・カラには3つの要塞があり、最も古いのがこの丘の上のアヤズ・カラⅠである。キジル・クム砂漠の端で、遊牧民の襲撃に対する防御と、シルダリアデルタの地からサカ族を北方に追いやるためである。
アヤズ・カラⅠは2.7haの長方形平面。高さ10mの壁が残っていて、規則的に塔のスペースがあり、二階建ての射手の通路と矢狭間がはっきりと認められる。下階の通路は地表のレベルにあり、ヴォールト天井は今でも残っていて、見学者はその中を通ることができる。前4世紀頃に通路のある囲いが造られた。前3世紀頃に丸い塔が付け足された。複雑な入口はホレズムの要塞に特徴的なものである。がっしりした入口は2つの角塔に守られて、小さな正方形の空間へと導く。第1の門を敵が破ったとしても、そこでは射手が四方の高い壁から見下ろして敵を射ることができただろう。要塞は、1世紀頃までは使われていたと思われるという。
その拡大
円筒形の監視塔は、下の方からは見えなかったが、基部は残っていた。
監視塔の残っている箇所と
ほぼなくなっている箇所
城壁はほぼ間隔を同じくして、縦に溝が入っている。もちろん風化でこのようになってしまったのだろうが、そこには矢狭間があるようだ。そのような隙間を作ったために、こんな風化の仕方になってしまったのだろう。
低い丘の遺跡はアヤズ・カラⅡ
小さく概ね楕円形の要塞で、西側の平地にある居留地と繋がっている。要塞は中世、7-8世紀頃、アフリーグ朝のものである。パフサの土台に日干レンガで壁が造られ、壁の頂部は矢狭間がある。内部構造はよく残っていて、内部の床は下の部屋の天井である。ヴォールト天井の遺構は劣化した箇所で見ることができる。斜路は要塞の門から丘の裾にある宮殿のような建物の入口に繋がっている。この宮殿は、中央アジア全域の中で、中世初期の最も美しい建物であるとされている。大きな円柱の並ぶ広間、華麗な腰掛け、儀式用の舞台、壁面、そして火の聖域がある。アフリーグ朝ホレズムの王たちのコインはここで発見された、特にブラヴィク王のものが。この宮殿は4世紀頃に建造され、連続した二度の火災によって破壊された。6、7世紀頃には短期間地域の民が住んでいたという。
下の方に見える白い土の盛り上がりがその美しい宮殿だったところかな。上の要塞と繋がるというけれど、時代が異なるので関係ないのでは。
さて、アヤズ・カラⅠを遠望できる丘の上のユルタの一つで遅い昼食となった。
靴を脱いで座って食事するので、思ったよりも広々としている。
上の2品が前菜、後はデザート
山と積まれたナン
スープの後にメインの肉料理。
アヤズ・カラⅢという遺跡は少し離れた平地にあるため、バスからは見えなかった。
平行四辺形でアヤズ・カラⅠの下の平地にある。城壁は二重で、角塔によって四方から守られている。西壁の中央に門がある。5haの広さで、城壁は1-2世紀頃のものだが、内部の北東にある建物はもっと早く、前5-4世紀頃のものである。アヤズ・カラⅢは、後1世紀頃のクシャーン朝時代には兵士の駐屯地か統治者の邸宅かも知れない。城壁の周囲には、ささやかな住居、農地、農地を囲む壁、そして葡萄畑のある多くの農場が発見されているという。
当時は今ほど乾燥していなかったのだ。きっとアムダリヤ川の流れが近かったのだろう。
→カラカルパクスタン2 トプラク・カラ遺跡1
関連項目
カラカルパクスタン3 トプラク・カラ遺跡2
※参考サイト
古代世界の午後の春田晴郎氏論説「古代 ホラズムの「家」と「しもべ」」と古代ホラズム遺跡サイトの紹介とGoogle Mapで見る古代ホラズムの遺跡
The Karakalpaks
ユネスコのAncient Khorezm
※参考文献
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人