お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2015年12月23日水曜日
タシュ・ハウリ宮殿1 ハレム
⑬タシュ・ハウリ宮殿は、ヒヴァのイチャンカラ(内城)では東部に位置する。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、アッラクリ・ハン(1825-42)時代に、ヒヴァの政治的、公的、及び貿易(商売)の中心は、イチャンカラの東部に移転された。新しい宮殿、メドレセ、隊商宿、および商店街(ティム)からなる新しい建物群はタシュ・ハウリ(石の庭)と名づけられた。
北部にはハンの公邸及びハレム(婦人部屋)があったという。
宮殿の出入り口にかかったパネルには1832-38年とある。
小さな入口には、ウズベキスタンでは一般的な木の扉があった。
三筋の組紐文は、くくったり越えたりしながら、六角形と6点星のイスリミ(幾何学文)をつくっていく。
入ったところがハレムの中庭だった。タシュ・ハウリもまた、青いタイルに覆われていた。
同書は、タシュ・ハウリの家族中庭(婦人部屋かハレム)は公式の部分と廊下で切り離されている。その南側には、ハンと彼の4人の奥さんの部屋から成っている5つのメインホールがあった。中庭の周りの二階建て建物は、使用人、親類、および第二夫人以下のためであったという。
このアイワンの続く二階に、その他大勢の女性たちが、個室もなく、集団で暮らしていたという。
東壁
入口のある側。二階には2つのアイワン
北東隅
タイルパネルの面積は狭く、文様も同じ文様が多いみたい。
二階の大パネル
基本的には六角形と6点星の組み合わせだが、白い線がその輪郭を辿ることによって、複雑な構成となっている。
その続き
北側には6つの小さなアイワンがあり、その間にはタイルの貼られた壁、または部屋がありそう。
通路は中央にあったみたい。
大パネル
木瓜文を縦横に繋いだようなこの文様はクニャ・アルクでもみられた。白い線の交差するところに露が一対ずつおかれて、目のようでもある。
その続き
これでは夏は暑かっただろうな。
西壁
小さなアイワンが一つだけで、二階は閉ざされた空間の方が多い。
第二夫人以下が集団で住んでいたという北側のアイワンに上がってみる。
扉にはやっぱりイスリミ(植物文)の浮彫が。
壁のある部屋には何も残っていなかった。
手すりの透彫
南側の、お妃さんたちのアイワンが4つ
そして、ハンの間
ここで時間切れ。奥まで行けなかった。
中央の通路を戻っていく。
→タシュ・ハウリ宮殿2 ハンの間
関連項目
タシュ・ハウリ宮殿のタイル3 植物文だけ
タシュ・ハウリ宮殿のタイル2 幾何学文だけ
タシュ・ハウリ宮殿のタイル1 幾何学文と植物文
タシュ・ハウリ宮殿3 妃たちの部屋
※参考文献
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 A.V.アラポフ 2006年 SANAT
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」 Cartographia 2009年