お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年12月9日水曜日

ヒヴァで朝散歩3 東門あたり


イチャンカラ(内城)のメイン通りをの方へ東門へ写真を撮りながら、ゆっくりと歩いて来た。

右手に白い小さな建物。

⑮アク・マスジド 1663-87年創建、1838-42年再建 
マスジドというと、モスクよりも格が高いのかと思っていたが、モスクの元になるアラビア語だった。
東・北・西の三方をアイワン(柱廊)で囲まれている。モスクのアイワンは夏用ということで、大抵はミフラーブも付いているのだが、よくわからなかった。
できるだけ遠くから撮ったが、全体は入らなかった。建物内が冬用モスクのはず。左の壁の向こうにもドームがあるが、アク・マスジドのものよりも平たい。
そして、さっきから気になっていたのが、この小さな塔。
塔?こんなに低くてもミナレット?
裏側に階段があって、そこから塔の頂部に入ってお祈りの呼びかけをしても、その声は遠くまで聞こえなかったのでは。
壁の向こうには、さっきの平たいドーム、そして白い明かり取りのあるドームも。

やっと東門の内側にやってきた。

⑯東門(パルワン・ダルワザ)
『旅行人ノート』は、バルヴァーンはマフムド廟のパフラヴァーン廟と同じ意味で、勇者(力士)の門とでもいうべきかという。
ここにも一重に渦巻く蔓草文が。
西門と違って内部が長い。尖頭ヴォールトとドームが幾つか繋がっている。
同書は、門は約60mにわたる細長いアーケード状の建物になっているという。
かなり古いNHKの番組で、ここをラクダに載った隊商が入って行くのを見たことがある。ブハラのタキに限らず、どこでもラクダが通れる高さだったのだ。
左右に低い尖頭アーチの部屋がある。タキのように商店が軒を連ねていたのかな。
同書は、アーケードの両側には間隔を置いて大きな窪みがあるが、ここではかつて奴隷が売られていたという。
ブハラのアルクの入口みたいなものだ。
扉の幾何学文(ギリヒ)に植物文(イスリミ)が入りこんだ浮彫はみごと。

さっさと歩いたら5分もあれば抜けられそうな距離だが、写真を撮ったり、交差する通りの向こうを眺めたりしたために、20分ほどかかっていた。
東門には日が当たっていた。ここまで来て正解。プレートには1806年とあった。

デシャンカラ(城外)にもミナレットが。
⑰サイード・ニヤズ・シェリカーボイのモスクとミナレット(1842年)
ミナレットだけでなく、門にも緑っぽい小さなタイルが嵌め込まれている。
これはガイドのマリカさんが言っていた、人の顔を上と下反対にして組み合わせた形で、ゾロアスター教の善悪を表したもの。後に魔除けの意味を持つようになったという、ちょっと変わった十字形。ヒヴァではあちこちに、この形の青や緑の彩釉タイルが嵌め込まれているのを見かけた。
頂部は装飾的なムカルナス。
横長のため、1枚には入らなかった。
門の中に入ると、モスクの中に人が出入りしているので、礼拝の時間かも知れなかった。
小さな中庭を撮るのも躊躇していると、一人のおじさんが門から入ってきた。
ウズベク語で私に何か言っている。やっぱり撮影はだめらしい。
しかし、そういう感じでもなかった。一所懸命に、身振り手振りも加えて、なにかを私に伝えようとしているらしい。
両手を口の横に当て、何かを叫んでいるような仕種。
アザーン!
正解!
門の横にあるミナレットは、礼拝の呼びかけであるアザーンのための塔であることを、異教徒の私に教えてくれていたのだった。
そんな風に現地の人と触れ合えるのも、こんな散歩の時ならでは。
反対側は、城壁に沿って新しい建物が並んでいて、しかも入口は閉じられている。

南を向くと東壁に先ほどのミナレットの影が当たっている。
城壁はどこまでがオリジナルで、どこからが修復なのかはよくわからない。修復しても崩れていくような感じ。

東門と東壁の間には隙間があって、そこからイスラム・ホジャのミナレットが見えている。
この間からまたイチャンカラに入ってみると、
東門の内側の門構えとの間に壁があり、その中が先ほどの通路になっているらしい。
そして、それに沿うようにドームが幾つも並んでいる。しかも手前には小さなドームもあって、複雑。
どうやらこれが⑱アヌシュ・ハンの浴場らしい。トルコでいうハマムのようなものが伝わったのかな。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、アヌシュ・ハン浴場は、有名な歴史学者アブドゥルガジ・ハン(1644-54)によって、息子のアヌシュ・ハンに敬意を表して建てられたと思われている。浴場は、アク・モスクにワクフ(贈与)として維持に当てられたという。
『旅行人ノート⑥』は、17世紀中頃、アブル・ガーズィ1世がブハラ・ハーン国へ遠征を行った際、その子アヌシャ・ハーンの機転により窮地を救われた。その報奨として与えられたのがこのハマム。屋根に多くの丸屋根が載っている半地下の構造で、外観も内装も後世に比べると質素。アク・マスジドも同時期のものだが、現在残るのは1838-42年に再建されたものという。

そして、⑮アク・マスジドの裏側、その左は⑪アブドラ・ハンのメドレセ。
ハマムはまだまだ続く、長いものだった。
アブドラ・ハンのメドレセの南側にも大きな建物があって、アイワンがこちら側に開いている。
浴場はここまで続いていた。こちらの小さい方が女性用かな。
一番高いイスラム・ホジャのミナレットは陽に当たり、こちらの日陰では植え込みの世話をしている人がいた。
東壁の内側。


        ヒヴァで朝散歩2 イチャンカラのメイン通りを東へ
                               →モハメド・アミン・ハンのメドレセ

関連項目
ヒヴァで朝散歩1 デシャンカラに出てみた

※参考文献
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」 Cartographia 2009年
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 A.V.アラポフ 2006年 SANAT
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人