お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2016年1月20日水曜日
イスラム・ホジャ複合体2 ミナレットからの眺め
㉒イスラム・ホジャのミナレットは、ヒヴァの南東部にある。
ミナレットには建物の二階からではなく、外階段から入るようになっている。
結構急な木製の階段。
中の階段もジュマ・モスクよりも急かも。ここも暗くてヘッドライトと小さな窓から入る光を頼りに登っていく。
窓からはジュマ・モスクとはまた違った町の様子が見える。
㉑パフラヴァン・マフムド廟中庭西側の青いタイルの壁面の向こうには①ムハメド・アミン・ハン・メドレセのフジュラの白い尖頭アーチが並んでいる。
これはどこだろう。その南方面で、西側の城壁が見えているようだ。
そして、城壁南東の隅は壁はあるが、銃眼胸壁部分は復元されていない。
デシャンカラの家並みと畑の緑、その向こうの集落、そしてずっと向こうには砂漠と地平線。
階段が段々明るくなっていくと頂部。
このアザーンを知らせる場所はジュマ・モスクのものよりも広く、安定感があった。
周りの景色はやっぱり柵の間にレンズを持って行って写すことになる。
上を見上げると補強の材木がいろいろある。
その上はというと、焼成レンガが積み重なっていた。外から見ると擬宝珠のようになっているところかな。
で、周囲を眺める。
まずは青いドームの⑲パフラヴァン・マフムド廟と手前はマザリ・シャリフのメドレセ。そしてその周囲の墓群。
その北側にジュマ・モスクとミナレット。
ジュマ・モスクは陸屋根で、2つしか明かり取りの窓がないし、南のミフラーブの上が一段高くなって、そこに小さな窓が開いている程度。ミフラーブ部分が浅く出っ張っている。
ジュマ・モスク南壁にくっついてサファルジャン廟、西側にはユヌス・ハン廟。
ジュマ・モスクの西に一対のドームがある⑧カズィ・カリヤン・メドレセ(1905年)、その斜め向かいに⑦シェィフ・ムフタル・アタのモスク。そしてアク・シェイフ・ババの見張り台の聳える⑥クニャ・アルクと西壁。
ジュマ・モスクの北側にも⑩マトパナ・バヤのメドレセ。他にもメドレセが犇めいている。その向こうには民家が並び、そして城壁がイチャン・カラ(内城)とデシャンカラ(外城)を分けている。
手前から、⑪アブドラ・ハンのメドレセ、メインの通りを挟んで⑫クトゥルグ・ムラドイナクのメドレセと、ヒヴァのイチャンカラはメドレセだらけ。
『旅行人ノート⑥』は、18世紀末になりロシアとの交易が活発になると、状況は一変する。ハーンや王族は流れ込んだ富で競うようにモスクやマドラサ、宮殿を建設し、古いものには改修を加えた。その結果、イチャン・カラの狭い空間の中に大規模かつ壮麗な建築物が、所狭しと密集するようになったという。
その向こうにタシュ・ハウリ宮殿。宮殿はハレムのタイル貼りの壁が目印。
東壁は途中で途切れ、東のデシャンカラは更地だった。
続いて、青いファサードの⑭アラクリ・ハンのメドレセ、その壁にくっついて6つの小ドームが並ぶ⑯東門(パルワン・ダルワザ)、その南壁にくっついてアヌシャ・ハンの浴場。
デシャンカラには、⑰サイード・ニヤズ・シェリカーボイのミナレット、その北側の幾つかの平屋根の建物はバザール。
引いて写すと、もう少し東側にもミナレットがあった。
東の城壁で隔てられた民家は、片流れの屋根も見られるが、ほとんどが平屋根。
南側手前にあるのがバグバンリ・モスク。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』がジュマ・モスクの円柱について、4つのコラムはバグバンリ・モスクのコラムを思い出させ、ナスフ式の碑文があると記述していたのがこのモスクだったのか。でも、その4つの円柱がどれかがわからない。
中景には㉓南門(タシュ・ダルワザ)と城壁。
南門の向こうにもう一つの門。ここを通ってカラカルパクスタンからやってきたのだった。
これが古い城壁。是非近くで見てみたい。
→南門(タシュ・ダルワザ)と古い城壁
※参考文献
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」 Cartographia 2009年
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 A.V.アラポフ 2006年 SANAT