お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2016年2月29日月曜日
ニサ3 正方形の広間と櫓状建物の柱廊玄関
ニサ遺跡は城壁に囲まれている。
⑭の柱廊を出て近くの城壁に登った。
目の前には、これまで通ってきた建物や、これから見学する建物の遺構が広がっている。
かなり崩れているので、城壁の中にいるという実感はなかったが、少しでも高いところからは遺跡や周りの風景も見える。
右(南)には低い城壁の奥に山並みが視界を遮り、
その続きの丘のような城壁が、その山の続きを阻んでいる。
城壁の外には集落が広がり、ニサ遺跡が天然の要害に城壁を巡らせた都城であったことが実感できる。
それに続く城壁の北端と中の遺構
北側からニサ遺跡を空撮した絵葉書
遠くに連なるのがコペトタグ山脈。
見学したのはパルティア時代の旧ニサだが、この絵葉書には新ニサ時代の遺構が手前に写っている。
ガイドさんによると、パルティアが滅亡した後も人々は住み続けたが、ここもまたモンゴルの来襲によって廃墟となったという。
正面には、⑮正方形の広間と背後の城壁。更に遠方には平地が続いてイランとの国境のコペトタグ山脈は霞んで見えない。
⑮ 正方形の広間 Square Hall (SH)
『OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、建物は2層で、20m四方、高さ11-13m、日干レンガの壁は4-6mの厚さ、天井の明かり取りから光が入る。屋根は1m四方の素焼きのタイルで覆われていた。広間の被覆材は木製。2階は円柱の間に壁龕があり、そこには高さ2-2.5mの塑像があり、鮮やかな鉱物絵の具で彩色されていた。
この部屋を謁見の間とする研究者もいるという。
四つ葉形の円柱は4本あったというが、確認できたのはこの2本だけ。
20m四方の広間に屋根を架けるとなると、ラテルネンデッケしか考えられない。
同書の復元図では天井がラテルネンデッケになっている。三角隅持ち送り天井と訳され、正方形の内側に、対角の正方形を嵌め込みながら天井が段々に高くなり、一番上の明かり取りも正方形となるはずだが、この図では八角形に見える。
4本の四ツ葉形の円柱の上に組んだ幅の広い井桁の内側はラテルネンデッケ。ではその周りの平屋根はどのように造ったのか?上の図では、太い桁に細い桁を等間隔で数本わたし、その上に木の板を張ってあるようだ。
当時は木材も豊富にあったのかも。
レンガは輪郭を曲線に成形して焼いたのかな、それとも四角い形で焼成したものを削ったのかな?
括れたところを見ると、四角形の焼成レンガをそれぞれの形に削ったものだとわかった。
壁に沿って焼成レンガで造られた6つの半円柱が残っているという。
屋根の荷重に耐えるためには、日干レンガの壁に付けられただけの半円柱では無理だろう。
東端の壁の傍にこんなものがあった。半円柱の残骸かも。これは半円形に成形して焼いたのかな。その方が後で削るよりも簡単だと思うのだが。
東壁の外を眺めると、クランクになった通路が付いていて、そこに柱礎があった。
三段の台にのっている。
その後⑰へ向かった。
櫓状建物の柱廊玄関
⑮と⑭の間に柱廊玄関がもう一つ。謁見の間らしき大広間や柱廊玄関が2つ並ぶなど、やはりこちらが入口側だったようだ。
三ツ葉形柱が間を置いて2本立っていた(補修レンガ)。
⑯ 櫓状建物 The Tower like Building (TB、Tower Templeとも)の前室
同書は、櫓状建物は南複合体の中心的建造物で、南と北に小さな正方形の櫓をもつ。小さな東側の櫓は修復され、旧ニサの出土品の博物館として開放されている。建物の高さは15-16m、下階の2本の廊下は狭い窓によってかろうじて明かりがとれる。複数の研究者によると、台座の上には大きな彫像(パルティア帝国を築いたアルサケス大王かも知れない)または聖なる炎があったと推定されているという。
こちらの4本柱の間は小さいが、⑮正方形の広間よりも高い。ここにもラテルネンデッケの天井があったのだろう。
その先は塞がっているので、⑰櫓状建物へはここからは行くことは出来ない。
狭い通路へ
ニサ2 円形の広間と赤い広間← →ニサ4 発掘現場
関連項目
ニサ遺跡の出土物はヘレニズム風
ニサ遺跡、正方形の広間はラテルネンデッケ
ニサ1 遺跡の狭い通路を歩き続けると
参考文献
「OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
2016年2月25日木曜日
ニサ2 円形の広間と赤い広間
ニサ遺跡を見学している。
⑨円形の広間から。⑧の通路から入っていった。
『世界美術大全集東洋編15』は、アルケサス朝は西方のイラン高原、メソポタミアな どのセレウコス朝の版図を侵食して領土の拡大を図ったが、前2世紀半ばにミスラダテスⅠ世(在位前171~前138)が登場し、メソポタミア以東を支配す るまでに至った。旧ニサの都城はこの国王によって創建され、ミスラダケルトと命名されたが、以後アルケサス朝が3世紀半ばに滅亡するまで、修復を繰り返し ながら存続したとみなされている。
旧ニサの代表的な建物はこの都城のほぼ中央にある「方形の建物」と「円形の建物」で、ともに日干レンガで構築されていたという。
⑨ 丸い広間 The Round Hall (RH)
『OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、直径17mで四角形の廊下を持つ建物。それはゾロアスター教時代に典型的な建物。丸い部屋は二重構造で、1階は滑らかな壁、2階は円柱が並び、円柱の間には壁龕があって、そこには神々の加彩された塑像があった。
屋根はドームで覆われていた。おそらく、祭司は王家の者だったという。
こちら側は円に見えるが、
反対側は円に見えない。
円形の神殿は外観は四角い建物だった。上の方はどうなっていたのだろう。
推定復元図ではドームが架かっていたことになっている。
このドームについては後日
この向こうにも何かありそうだが、向こうの長細い部屋はどこに属しているのだろう。
⑧小部屋に戻り、先が行き止まりの⑩細い廊下を通り過ぎて右へ
⑪広い部屋への入口があった。
⑫ 赤い建物 THE RED BUILDING (RB)
『OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、赤い建物は、円形の広間、柱廊玄関も含めて長さ40m、高さは4.5mという。
円形のゾロアスター教神殿とされる部屋は独立した建物として、平面図に異なる色を使ったが、研究者は一連の建物とみているようだ。
建物に入ると、そこで作業していた老人が、土を取り除いて柱礎を見せてくれていた際に、
金箔が見つかった。何に貼り付けられていたのだろう。
盛り土の数だけ円柱があるのかと思ったが、絵葉書によると、赤い建物の中央広間で、円柱が2本ずつ2列に並ぶ正方形の部屋らしい。
円形の広間の天井がドームだったのなら、この広大な正方形の部屋にはどんな屋根が架かっていたのだろう。焼成レンガでも日干レンガでも、レンガを持ち送って造るので、天井はドームてなければ円筒形ななるが、こんなに広い空間を覆うヴォールト天井を造る技術がその当時あったのだろうか。
その老人はイタリア人の考古学者だった。そして、説明しながら見せてくれた壁面の写真には赤と白の縦縞があった。
紅白に彩色された腰壁があったのだ。
⑬ 右奧の通路から柱廊玄関へ
⑭ 柱廊玄関 Portico
部屋を出て右側の壁。先の方には凹凸が設けてある。
左の方には先ほど見せてもらったような腰壁が露出していた。当時の床面はもっと低かったのだ。赤い彩色が残っている。
絵葉書では装飾板はもっと深くまであって腰羽目板だった。
外側から見た柱廊
本来はここから赤い正方形の部屋に入り、円形の広間でゾロアスター教の儀式を行ったのではないかな。
壁の深い縦溝は何だろう?
ニサ1 遺跡の狭い通路を歩き続けると←
→ニサ3 正方形の広間と櫓状建物の柱廊玄関
関連項目
ニサ遺跡の出土物はヘレニズム風
ニサ遺跡、正方形の広間はラテルネンデッケ
ニサ遺跡、円形の広間のドーム
ニサ4 発掘現場
参考文献
「OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
2016年2月24日水曜日
ニサ1 遺跡の狭い通路を歩き続けると
トルクメニスタン南部、コッペ山脈とかコペトタグなどと呼ばれている山脈の向こうはイランというところに首都アシガバードはある。
ニサはその西の郊外にある。
『OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、旧ニサと新ニサという2つの古代の遺跡は、アシュカバードの南西16-18㎞、コペトダグ山脈の裾野、バギル村の外れにある。旧ニサはトルクメニスタンの重要な歴史的記念物の一つで、強力なパルティア王国(前250-後224年)だった。ミトリダテスⅠ(前171-138)とミトリダテスⅡ(前124-87)の時代にメソポタミアからインドまでの広大な領土を統治した。
アレクサンドロス大王が前323年に死んで、大帝国は国土を段階的に分割していった。前305年、現トルクメニスタンの南方、古代パルティア王国の土地はセレウコス朝(アレクサンドロスの部将の一人)の一部となった。
前250年、パルティア王国の土地のセレウコス朝の統治者アンドラゴルは中央の職を辞した。しかしながら前245年サカ-マッサゲタイ族(トルクメン族の祖先の一つ)は、アルサケスとトリダテスの指導の下、カスピ平原からパルティア王国へと移動を開始した。その後アンドラゴルを殺し、アルサケスをパルティア王国の王であると宣言した。500年以上存続した。中国からヨーロッパの国々まで延びた「大シルクロード」はその領土を通っていた。
主要な経済は、人工灌漑による農業、牧畜と同時に、交易と手工芸も発達したという。
アシュカバードからバスで30分ほどで道路からそれて丘を登ったところが旧ニサだった。
右手に周壁が見えてくるとすぐに遺跡への入口があった。
入口からは主要な建物や左奥には発掘現場、建物の手前には貯水池などが見えた。
遺跡プラン(数字は見学順路)
入口を目指す。たくさんの建物が残っているみたい。
左奥の発掘現場。
かなり修復が進んだ建物や、日干レンガのままのものなどさまざま
① 入口
ただの四角い開口部
② 入ってすぐに左の狭い通路へ
日干レンガで造った建物は、そのままレンガが見えるのではなく、土で覆われ、漆喰で白く仕上げられていた。
ガイドさんはそう言いながら、漆喰の残っている部分を示した。
白い漆喰がところどころ残っていて、漆喰の厚さが感じられる箇所もあった。
通路は狭く右側の日干レンガで修復してある壁の終わる所③で右へと向かった。
④ 狭い通路
このレンガ壁が⑰櫓状建物の外壁だった。
その通路を入って行くと、
⑰ 櫓状建物 The Tower like building (TB)
入口から入って壁の間の狭い通路を、角を曲がりながら歩いていったが、櫓状建物建物の周壁、あるいはその外側に沿って進んでいた。
通路は途中で行き止まり。櫓状建物の外通路だった。
この凹みは櫓状建物への通路?
赤い色が残っていると言われれば誰もが写した。
赤い植物顔料を土に混ぜて日干レンガに塗った。その色が今でも残っているのだそう。
しかし、ベンガラのような無機顔料ならともかく、有機顔料は長く残らないと化学系の亭主はいう。文系の私もそう思う。
その先に2本の円柱がある
⑤ 2本の円柱のある場所
円柱の基礎は、保護のために土が被せてあった。
その外側の遺構。
円柱の背後には櫓状建物の廊下への入口があった。その向こうは櫓状建物の修復された壁。
平面図を見ると、櫓状建物の裏側入口の前にあたる。ということは、円柱の外側の壁は遺跡の保護のために築かれたもので、当時はこちら側からも入ることのできる通路があったのでは?
櫓状建物の壁に沿った廊下を進む。
⑥ 櫓状建物のもう1本の廊下が、
しかし、狭くて先で行き止まりだった。
突き当たりまで進んで右折、櫓状建物の廊下へ。
しかし、⑦の廊下はまたしても途中で行き止まりになっていた。
右を向くと⑰の内側が見えているのでは?中に入れば良かった!
奥壁の色の着いた箇所は地層のようにも見える。
左手を向くと⑧反対側の通路に向かうようだった。
→ニサ2 円形の広間と赤い広間
関連項目
ニサ4 発掘現場
ニサ3 正方形の広間と櫓状建物の柱廊玄関
参考文献
「OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社
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