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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年10月3日月曜日

サラズム遺跡


フシカットの町を過ぎ、しばらくすると、川が急なカーブを描く地点に。

やがて細いポプラの木々の間からゼラフシャン川が再び迫ってきた。
こここそがアイニの崖っぷちの美しい風景を眺めることができる絶景ポイントだった。
山には光が当たるが、紅葉のポイントはすでに日が陰っている。
今考えると、写真の縦横の比率を変えていれば良かったのだが、川を入れようとすれば対岸の紅葉が切れ、紅葉を入れようと思えば川の流れがきれてしまう。

対岸の紅葉の下には羊が数頭いるだけで、人はいない。
山裾の家並みと紅葉した木々にポプラの縦の線が立体感を増している。これらの葉が落ちる頃になると、ポプラの黄葉が映えるのだろう。

さてペンジケントへ向けて西進。この道はブンジカットの町へとアラブ軍が歩を進めた道でもある。
Google Earthより

川沿いはやっぱり土のような脆い山。
だんだんと雲行きが怪しくなってきた。
吊り橋発見
古い橋を見ながら、架け替えられたばかりのマルジェダル橋を通る。
やがて幾筋も流れのある広い河床。コルホズチエン(Kolhozchien)というところらしい。
その川からも遠ざかり、

やっとペンジケントの町に着いたが、車はそのまま西へと走り続ける。

時間が遅くなってしまったので、ルダーキー博物館は明日見学して、これからサラズム遺跡に行くことになった。
シルクロードの古代都市』は、マルギアナの青銅器文化と、はるか北東方にある前3000年紀末の古代ソグドにおける青銅器文化の大中心サラズム(約100ha)とのつながりも指摘されている。サラズムは古代ペンジケントの西15㎞、ゼラフシャン川の岸辺にある。発掘者イサコフ(A.Isakov)は、この文化をマルギアナからの移住者によるものとしているという。
Google Earthより
ついには雨が降ってきた。サラズム遺跡は世界遺産に登録されていて、保護のためにユネスコによって屋根が架けられていた。

その屋根は5つあるが、ジャムシェットさんは①②は宗教施設、他は住居という。
ユネスコ世界遺産のサラズムのページは、サラズムとは「地の始まるところ」を意味しており、紀元前4000年から3000年末、中央アジアにおいて人間が定住生活を発展させたことを示す考古遺跡である。遺跡からは、この地域における都市形成の初期的発展を見ることができる。この居住地は、中央アジアで最も古い定住地のひとつであり、遊牧民の家畜放牧に適した山岳地帯と、農耕や灌漑に適した広大な流域にはさまれている。この遺産からは、住んでいた人々が、中央アジアとトルクメニスタンの大草原からイラン高原、インダス流域、遠くはインド洋に及ぶ人びとと商業や文化の交流、交易が行われていたこともうかがえるという。
Google Earthより

現地の説明板は、サラズムは新石器と青銅器時代(前4千年紀半ば-前3千年紀末)に交易や記念建造物を発展させた原始都市の中心である。居住地はゼラフシャン川左岸、タジキスタンのソグド州にあるペンジケントの15㎞西に位置する。約100haの広さ。主な経済は農業と牛を売ることからなっていた。手工業経済は、冶金術、宝石細工、土器の生産、織物、籠づくり、皮革工芸、石の薄切り、貴石が発達していた。「サラズム人」は、ユーラシアの原始都市では物質文化が高度に発達した人々だった。
建築は住居、公共的、文化的な建物が見つかっている。火を崇拝したようで、大小の円形と四辺形の正確に築造された火の場所あるいは「祭壇」が複合建造物の主室にあった。
発掘調査で、複合建造物の中に特化された部屋や、壺、武器、宝飾品などの製作のための作業所があることがわかった。公共建造物は穀物庫、礼拝所を含んでいる。サラズムが階層社会構造であることは、「サラズムの王女」の墓によって示された。上流階級に典型的な、殉死者と豪華な副葬品を伴う大きな環状列石の中に埋葬されていた。
サラズムの遺物は、パキスタン、イラン、アフガニスタン、トルクメニスタン、更に遠くの「錫の道」に沿った遠くの東や西の同時代のものと類似が見られる。この類似は「サラズム人」の交易網がいかに広大なものであったかを教えてくれる。
サラズムは、ユーラシアの原始都市文化にとって、特異な初期農耕定住地である。例外的に広く複雑な「国際的な」ネットワークを表している。この発見及び研究は古代オリエントの歴史に新しい時代を開き、世界的な評判となった。2010年に世界遺産に登録されたという。

遺構に屋根が架かっているのと雨のせいで、暗くて撮影が困難だった。

① 宗教施設跡(東より)
写真右端に丸く平たいものがあった。
遺跡にあった図面には、見えている複雑な仕切りなどはなく、丸い円盤もないのだが。
北西より
ここから眺めると、中央に円盤の置かれた正方形の広間、周囲に二重の通路という風に見える。
カメラとビデオで撮影しているので、写したつもりでもビデオの方にしかないこともある。
画像は粗いがなんとか円盤の写っているビデオがあった。(北より)
ジャムシェットさんに質問すると、床や壁は日干しレンガでできているが、この丸いものはおそらく石だろう。ゾロアスター教以前の時代のもので、祭祀に関するものだろうが、推測でものを言うことはできないとのこと。
『シルクロードの古代都市』によると、住民はマルギアナからの移住者らしい。マルギアナのマルグシュ遺跡でも拝火神殿があった。
円盤の南側にある長方形の浅い凹みには、焼け残りのようなものがありそう・・・ というのは妄想?
その他にも火に関係するのではないかと思うような焦げ跡のあるところも。
ここで土器を焼いていたとは思えないが、青銅器をつくっていたかも知れない。

ホジャンド州博物館には、サラズム遺跡の出土品と想像図の展示があった。おそらくこの①の宗教施設だろう。

西側の②から眺める。
①と②の間には、日干レンガを積んだ細い溝のようなものがあった。

② 宗教施設跡
こちらは中央が広くなっていて、その南西隅に正方形の土台と薄く平たい円形のものが。
周囲に2列の細長い空間がある。
しかし、見る方向によって部屋割り?はさまざま。
南側から見ると
その続き
時期によって遺構が色分けされているのだが、今見えているのがどれなのか、さっぱりわからない。
赤い円形のものが拝火壇なのだろうか。
『SARAZM 5500』というリーフレットには、遺構を上から見下ろした画像がある。

③ 大きな住居跡 
権力者の住居だったらしい。
何層かある建物の中央がホールだったという。
中央以外はしっかりと日干しレンガが敷き詰められている。
中央ホールの床には複数の畝のようなものがある。
中央に広間のある建物といえば、その屋根はラテルネンデッケではないかとおもうのだが。
それについては後日。

④⑤の住居跡にはいかなかったが、サラズム遺跡の人口は3000人ほどだったという。
そのマルギアナからの移住者だった住民たちが前3千年紀末にこの町からいなくなった理由は何だろう?

  シャフリスタン・トンネルを抜けると絶景が待っていた
                 →ペンジケント(パンジケント)遺跡1 2、3階建ての建物跡

関連項目
タジキスタン国立古代博物館1 サラズムの王女
マルグシュ遺跡2 王宮
ニサ3 正方形の広間と櫓状建物の柱廊玄関
アフラシアブの丘 サマルカンド歴史博物館3

※参考文献
「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)
「SARAZM 5500」