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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年10月6日木曜日

ペンジケント(パンジケント)遺跡1 2、3階建ての建物跡


朝まで降り続いた雨がようやく上がり、ペンジケント遺跡の見学が実現した。
ペンジケントもソグド人の都市国家の一つで、現在ではマーイムルグ、中国の昭武七姓では米国に比定されている。

『ソグド人の美術と言語』はイスラームの侵攻について、サマルカンド王グーラク(烏勒伽)は抵抗を試みるが成功しなかった。
グーラクがサマルカンドを放棄したとき、一部のサマルカンド住民はペンジケント王デーワシュティーチュを王に戴いたらしい。グーラクの前のサマルカンド王突昏(タルフン)の息子たちをデーワシュティーチュが保護していたことも関係があったろう。イスラム側もそれを承認したのか、ペンジケントの東のムグ山で発見された「ムグ文書」の中の彼宛の手紙では、彼を「ソグドの王にしてサマルカンドの領主」と呼んでいる。彼の即位は721年であったらしい。
この中でいっきに緊張が高まったのは、対ソグド対策で軟弱路線を取っていたホラーサーン総督のフダイナに代わって、酷烈で有名なアル=ハラシーが就任した722年の初夏だった。
一部のサマルカンド住民はデーワシュティーチュについた。しかし頼みの彼もムグ山の砦で籠城した後722年の8月には捕らえられ最後には磔の刑に処された。この刑は追いはぎに対する処刑方法であった一国の王に対するものではなかったという。デーワシュティーチュ軍が敗北したとき、ペンジケントは炎上したようで、遺跡には火災の跡があるという。 
町の南の丘の上にあるこの遺跡は、イスラーム勢力の侵攻で破壊されたまま忘れ去られていたため、良好な状態で残っている。

今日も遺跡の説明はジャムシェットさん。タジキスタンではペンジケントではなく、パンジケントと呼んでいることを強調する。
王の住むシタデルの外側に兵士の駐留地ガルニゾンがあり、シタデルの東方に貴族や一般人の住むところや神殿、市場などがあった。それぞれ城壁で囲まれ、見張り塔もあった。城壁の南方には農地(ラボット)、もっと南には墓地(ネクロポリス)があったという。
Google Earthより

入口の案内図
14haの広さ、北側の城壁は発見されていないという。ゼラフシャン川沿いにやってきたイスラーム軍が破壊してしまったか、自然に崩落したのか。
『NHKスペシャル文明の道③海と陸のシルクロード』は、ソグディアナのオアシス都市国家は、東西から流れ込む富と文化によって繁栄を極めた。
その一つ、ザラフシャン川上流のペンジケントの町の様子が、明らかになってきている。エルミタージュ美術館のボリス・マルシャーク博士と研究グルーブが再現するペンジケントは、次のようなものである。
-城門の入口には収税吏が立ち、交易のために訪れた人びとから税を取り立てた。門を入ると内側には、ロバや駱駝を留め置くための場所がつくられていた。動物たちをそこに置いて、人々は歩いて町のなかに入っていったという。
その門がどこかも分かっていないらしい。

入口の案内図にあった城壁の説明

城壁は高さ8m。
想像復元図
監視塔は角形で、上の壁には細い矢狭間が密に並ぶ。
断面図
ヴォールト状の通路が1階と2階にある。シリアの十字軍の拠点クラク・デ・シュヴァリエで通った通路(石材)のような感じかな。もっと天井は低く、幅も狭かっただろうが。
矢狭間はその上、屋上には凸字形の胸壁が並んでいたらしい。
城壁の内部構造
日干レンガの層とパフサの層が交互に積まれている。

① 入口はここ
階段を登って
居住区(シャフリスタン)を見学する。
シャフリスタンには南北のメインストリートが2本、東西には6本の道があったというが、東西の道はほとんど分からなかった。
また、メインストリート1は6世紀には城壁だったところ。人工が増加したため、8世紀になって、その東側も宅地にし、城壁も造り直したのだとか。

メインストリート1に入る。

② 建物1 庶民の住居
木は非常に貴重なものだったため、神殿、王族や有力貴族の住まいに使われる程度で、他の人々の家は日干しレンガやパフサなどで造ったという。
ここでは壁画が出土したという。
土塊が日干レンガとは比べものにならない大きさなのは、パフサと呼ばれるものだから。
今でも赤い彩色痕がある。
その下にアーチ形にあいているのは窓ですか?
いや、そうは思わない。パフサは縦横80㎝ほどある大きなもので、その隙間から雨水が入り、その浸食でこうなったのだろう。あるいは別の用途があったかも知れない。
浸食にしては形が整い過ぎているような。

メインストリートを進んで行く。
左手にも建物跡が。
日干レンガがよく残っている。

右へそれる。

畝のようなものが壁、ところどころの盛り上がりが屋根や天井だった。
遺跡が発見された時は屋根や上階が崩れ落ちた状態だったらしいが、当時の発掘では、調査後そのままにしておいたので、風雨にさらされ、人に踏まれて、遺構は徐々に傷んでいく。

これがイスラーム軍に敗れて炎上したという火災の跡?

③ 建物2
『ソグド人の美術と言語』は、ソグドの建物は、土構造物である。黄土(レス loess)に水とスサを混ぜて、粘土ブロック(パフサ、1辺が約1mの立方体)、日干し煉瓦(約10X25X50㎝)をつくり、それらを積んで壁とする。壁の表面には、壁土が塗られる。壁画を描く場合には、壁土の上から石膏を塗り下地をつくる。建物の一部には木材も使われている。
住宅の多くは、両隣、裏の住宅と壁を共有している。二階建てもしくは三階建てで、ほとんどは平屋根であるが、ドーム天井やヴォールト(アーチ形)天井もある。という。
一軒の住宅ではなく、壁を共用した住宅群だった。
東端の遺構。これが一軒分。
出入口のあるのが2階で居住空間、下が貯蔵室だったという。2階はヴォールト天井だったことが、入口上の天井が少しずつ迫り出していることからわかるのだという。確かに。
マンションのように縦横に住居が並ぶのではなく、長屋のように、周囲に住居が並んでいたのだ。
3階くらいありそうなものも。ここは先ほどの住宅よりも広い。
梁を並べて平天井か平屋根にしたような等間隔に四角い穴が並んでいる。
壁の南側
段々家の区画が広くなっている。
ヴォールト天井の痕跡が左端の壁にある。

続いてメインストリートに戻り、そのまま進んでいった。

④ 建物跡3
部屋から部屋へアーチ形の開口部から行き来できる。
丸い穴は何かな。
ジャムシェットさんがいるのが1階
この上に2階があると言っている。我々は2階の天井、あるいは屋根のレベルで見下ろしている。
北側から部屋の連なりを眺める。

またメインストリート1を進んでいくと、道なりに左カーブして、遺跡の北辺へ。
北側の城壁は確認されていないらしい。
⑤ 建物4
大きな建物の壁。

遺跡から現在のペンジケントの町を眺める。
雨は止んだもののすっきりしない空。
遺跡の直下まで住宅がひしめいている。

9世紀にイスラーム軍に敗れ、廃墟となって以来忘れられた町となっていた。再び人が住むようになったのは14世紀のことだという。ソグド時代の町はそのまま忘れられていたが、町の名前は同じペンジケント(パンジケント、5つの町の意)だという。


   サラズム遺跡←       →ペンジケント(パンジケント)遺跡2 ゾロアスター教神殿


関連項目
ペンジケント(パンジケント)遺跡3 小さな博物館

※参考文献
「ソグド人の美術と言語」 曽布川寬・吉田豊 2011年 臨川書店
「NHKスペシャル 文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送協会