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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年10月20日木曜日

ペンジケント ルダーキー博物館2 イスラームから現代


イスラーム時代の展示室へ。

最初は面白い柱礎だと思っていた。
柱身にも浮彫があって、
持ち送りのように広がっていて・・・これは柱礎ではなく、梁を支える四柱の1本だ。
説明にもちゃんと柱頭 9-10世紀と書いてあった。

隣のアーチには、ウズベキスタンでもよく見かけた円柱が。これは19世紀とだいぶ下がる。
球を上から包むような形は似ているが、ヒヴァのジュマ・モスクの円柱ほどの浮彫はない。

14-15世紀のタイルのコーナー

同じくヒヴァのクニャ・アルク宮殿謁見の間のタイル(19世紀)を想い起こさせるが、渦巻はヒヴァほど幾重にも巻いていない。
このような染付のタイルが14-15世紀にペンジケントで造られていたとしたら驚きだ。中央右寄りに人字形に分枝する箇所にはのの字形の小渦が見られ、その上に「J1」に似たものが描かれている。
これが壁面を覆うタイルパネルのどの場所にはめ込むかを見分ける記号ということになる。そうなると、ヒヴァのタシュ・ハウリやクニャ・アルク宮殿に見られる青と白(日本風には染付、中国では青花)の複雑に絡み合う蔓草の描かれた大画面タイルパネルに繋がるものということになる。
これについてはこちら

幾何学文の浮彫タイル
サマルカンド、シャーヒ・ズィンダ廟群のクトゥルグ・アガ廟(1360-61年)ファサードの浮彫タイルに似ている。紫色の釉薬が使われているのも共通する。
サマルカンドとペンジケントは50㎞ほどしか離れていないので、サマルカンドで焼かれたタイルがペンジケントまで運ばれた可能性はある。

浮彫無釉タイル
文様といい、出来栄えといい、古拙な印象を受ける。

大型タイル・パネル 
ウズベキスタン、特にサマルカンドとは色調が異なるが、緑の濃淡による幾何学文様。一見モザイクタイルのようだが、釉薬のはみ出しがそうではない証拠。


続く部屋には、この博物館の名称にもなっている詩人ルダーキーのコーナー。ペンジケント出身という。
イスラームでは詩人は尊敬されているので、ロマさんは熱くルダーキーの話をしてくれた。
後日ロマさんが自分のつくった詩を朗読してくれた。タジク語なので理解しようがなかったが、現在でも自作の詩を人に伝えるということが、普通に行われるものだということがわかった。

その後はタジキスタンの民俗資料の展示。
ナン焼き窯、竈、紡錘車、バターを作るための木製容器。ナンをのせる籠、金属製の盆、水差しなど。
居間あるいは客間。勿論履物は脱いで家に上がる。
壁に掛かる刺繍布スザニの色彩はやはりサマルカンドのものに似ている。
金属器や伝統楽器の展示室。色の違うスザニが壁に掛かっている。
タジク帽やスカーフ。
タジク帽はキルギス帽とはだいぶ形が違う。四角い帽子は頭をすっぽり入れるほど大きくはないので、ヘアピンで留める。
現代の陶器
経糸・緯糸ともに絹の絣をアトラスと呼ぶ。緯糸が綿のものはアドラスとウズベキスタンで言っていたが、タジキスタンでも同じで、文様も似ている。

最後に動物の剥製を展示してある部屋を見学。
これがユキヒョウ。人に飼い慣らされたユキヒョウが、狩りの場面に登場する岩絵が、キルギスのイシク・クル湖北岸にあったが、こんな丸顔だとは。


  ペンジケント ルダーキー博物館1 青銅器時代からソグド時代
                                →ペンジケントからムグ山へ

関連項目
ペンジケントに青花蔓草文タイル
ヒヴァのジュマ・モスク2 内部
ヒヴァ、ジュマ・モスクの木柱2 イスリミ(植物文)とギリヒ(幾何学文)
ヒヴァ、ジュマ・モスクの木柱1 古いもの