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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2017年1月9日月曜日

カンプル(カンプィル)・テパ遺跡1


ファヤズ・テパ遺跡を見学後カンプル・テパへ。カフタルハナ(Kafrarkhana)の先でM39号線から分かれた。
アムダリヤ沿い、つまりアフガニスタンとの国境際を通るこの道路は、Google Earthで見ると、43㎞ほど西でウズベキスタン・アフガニスタン・トルクメニスタンの三国の国境があり、その後はトルクメニスタンに入って行く。
『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、15世紀のペルシャの著述家ハーフィズ・アブルーは、アムダリヤの渡し場のリストの中に、タルミズ(テルメズ)より西方におけるさらにもう一つの渡し場を挙げた。
それには次のように述べられている『<ブルダグイ>はテルメズに近いジェイフン河岸の土地である。そこはテルメズよりもずっと以前に存在し、アレクサンドロス大王によって築かれたと言われている。<ブルダグイ>とはアレクサンドロス大王の時代にあたえられたギリシャ名称であり、<客をもてなす家>という意味であった。という。
アムダリヤはロシア語、この地では古くはオクサス川と呼ばれ、ジェイフンはアラビア語とのこと。
ここもまた、アレクサンドロスが足を踏み入れた土地だったのだ。
Google Earthより

アムダリヤは見えない。鉄道を左に見ながら走っていたバスは、小川を渡ったかと思うと、ぐるりと舗装されていない脇道に逸れたかと思うと、鉄道をくぐっった。
濁った小川に出て、川沿いに。
しばらくして右折で荒れ地を登っていき、

城壁らしきものが見えてきた。どうやらカンプル・テパ遺跡に到着したようだ。
その城壁は復元されたものだった。

『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、カンプィル・テパはアムダリヤ右岸、シュロブ・クルガンから西に0.6㎞のところにある。その小高い黄土の台地は、各所に形成された窪みやなだらかな浅い谷によってところどころ寸断されている。遺跡は城塞とその東西に広がる居住区<郊外>から構成されている。全体は東西が750m、南北が200-250mであった。主要な防御施設部分は<城郭>で、面積4ha、東西の距離275m、南北75m、内城と居住区からなる。周囲に張り巡らせた幅約5mの厚い城壁の内部には回廊があり、側射用の正方形のやぐらを設け、さらに周囲は濠で囲まれていたという。
サマルカンドに残るソグド時代の城壁と同じで、矢狭間が上向きの矢形をしていた。そしてアフラシアブの丘にある歴史博物館に展示されていた矢狭間は復元されたもので、前3-2世紀のものだった。古くから、そして広い範囲で矢形の矢狭間が城壁に巡らされていたのだ。
修復あるいは新たに復元された城壁は東側の谷に近いところ。

同書は、内城は城郭の中央にあり、南側は一部崩れていた。東西の距離150m、南北100m、面積1.3ha、東南隅には城門がある。内城は幅約5mの日干し煉瓦積みの壁と、幅約10m以内の濠で囲まれている。内部には、様々な機能の部屋がびっしりと建てられており、通路によって4つの大きなブロックに分けられている。
居住区の構造は、密集居住区、やぐらのある城壁、外壁から区切られる内城の存在によって確定する。内濠を三方向から取り囲む密集居住区は円形劇場のように位置し、同じような形の家屋が外壁から始まり、黄土の地山に掘り込んだ階段状のテラスによって濠に向かって下ってゆく。建物は東半分に集中しており、そこは数多くの家屋が含まれる5つの独立した住居ブロックからなっている。
都城址の<郊外>は、主に埋葬コンプレックスによって占められている。その西から西北部にかけての0.5haの面積の中には、様々なプランと規模のナウス式の墓が10基ある。東部にも同様にカタ-それぞれが通路で分けられている3つの建物からなる正方形のプランを含めていくつかの埋葬建造物がある。
その20-40m下には2つの窯址があった。1つはクシャン時代のもので、もう1つはグレコ・バクトリア時代のものであった。
この都城址には4つの主な居住時期があったことが確認された。
1 前3世紀中頃-前2世紀  城郭がアムダリヤ河岸、後の城塞の位置に建てられる。
2 前2世紀中頃-前1世紀  城郭の外れに居住地が集中。
3 1世紀-2世紀        城郭の繁栄と発展。町が4部分:城塞、城壁を伴う居住区、埋葬建造物のある地区、商業用の桟橋、に分かれている。
4 2世紀中頃から2世紀後半 都城址の放置 
この都城址から出土した厖大な建物の中では古代ギリシャ文字が刻まれた3つの陶片が特に注目される。これらの発見は、前1世紀には古代ギリシャ語と測量法を良く知るギリシャの集落があったことの確かな証拠となる。カンプィル・テパの初期の城壁は、その望楼の造りから、ギリシャ人の要塞建造の伝統を髣髴とさせる。ギリシャに源を発しているその他の出土品には、アンティオコス1世(前281-261年) ・・略・・ ヘリオクレス(前156-140年)のグレコ・バクトリア貨幣、アンフォラ型壺  ・・略・・ テラコッタの小像がある。これら全ての出土品は、都城址のもっとも初期のものであり、カンプィル・テパがバクトリアのギリシャ人の行政によって築かれたことの証明となる。築城初期、城塞はグレコ・バクトリア王国の首都、バクトラに直行するオクサス川の主要な渡し場を警備するといった最重要の機能があった。
クシャン時代になると城塞の機能は徐々に失われていき、通過するキャラバン隊商の世話をする町に姿を変えていった。このことは、城塞にある数多くの倉庫や貨幣によって確認される。同時にこの町は税関機能も担っていたという。
展覧会の図録というものは、つくづく有り難いものだ。このツアーに参加することになってガイドブックを作成していた時、カンプル(カンプィル)・テパについて書かれたものはほとんどなかったが、10年前にあった『偉大なるシルクロードの遺産展』の図録に、「カンプィル・テパ=パンダヘイオン-アムダリヤにある遺跡という、エドゥワルド・ルトヴェラーゼ(ウズベキスタン科学アカデミー会員・ウズベキスタン芸術学研究所美術史部長)氏の文を見つけた。
それから、カンプル・テパかカンプィル・テパかだが、日本ではカンプル・テパと記されることが多いが、創価大学と、ウズベキスタンのハムザ記念芸術学研究所が共同で出版した『南ウズベキスタンの遺宝』でもカンプィル・テパ(Kampyrtepa)となっている。

遺跡に到着後、セルゲイさんは、復元された城壁よりも西側へと向かった。
城壁跡を踏みつけて遺跡に入る。居住区が城壁の際にある。
右向こうに均一な区画の遺構、そして遠くにアムダリヤ、その向こうはアフガニスタン。

左向こうの小さな谷が当時の正面入口だったそうで、税関も残っているという。
遠くからでも見えたこの渦巻いた遺構のそばを通って行く。渦巻の中へ入ってみたいし、何故こんな迷路状になっているのか知りたかったが、セルゲイさんはどんどんと歩いていってしまう。
ここでセルゲイさんが見せたかったものは、無数に埋まっている壺だった。
壺は薄手で、貯蔵に使われていた。

谷の向こうにも遺構は広がっている。
谷は下りずに西へと向かった。
後方右端には復元された城壁、そしてそれに続く城壁南面の遺構。
その拡大。

やがて崖に近いところへ。四壁の残る建物跡が並んでいるが、税関があったところらしい。
遺構の南側は農地が広がっている。ここでは稲を栽培しているという。
アムダリヤはずっと遠くを流れているが、この遺跡の町が栄えていた頃は、町の際というか崖下を流れていた。
上の方の遺構は小さな建物群だったようだが、崖に近いところは壁も厚く、大きな建造物が連なっていた。
その下の方には出土した土器片が集められていた。

その西側はまだ発掘されていない?
建物跡にはやはり大きな壺がたくさん出土している。
その拡大

セルゲイさんは窪地をどんどん下りていく。

かつてのオクサス河岸に下り立った。
セルゲイさんが指さした。あんな上の方にも壺が露出している。中には底だけが残っているものも。
同展図録は、『古代、ジェイフン河にかかる渡し場を取り仕切る大規模な船領主達が<ブルダグイ>にいた。スルタンの渡し場(グザルゴフ)はここにあった。古代のバーディシャー(地方君主)は、河の渡し場を見張るためにこの(場所の)住民を庇護し、税を免除した(タルハン)。このような理由で住民数は増加し、主人(ハジャゴン)は裕福になった。』
ミノルスキーはギリシャ語の単語<パンドキー>-すなわち宿泊所のことでペルシャ語の<メフモンハネ>と同意義-から派生した<パンダヘイオン>という単語が、<ブルダグイ>という単語のもとであることを証明したという。
ハーフィズ・アブルーによると、15世紀にはまだ渡し場として機能していたらしい。そして、<ブルダグイ>の周辺には多くの森(ジャンガル)があり、そこには虎(シル)が生息しているという。
今では森もなく、栄えた町も廃墟になってしまった。それはアムダリヤの流れが変わったためだろうか。
崖も建物の日干レンガも同じ色なので、どこからが構築物か見分けられない。
このように同じ高さに並んだ小さな穴の列は、木の梁だったのでは。


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※参考文献
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「南ウズベキスタンの遺宝 中央アジア・シルクロード」 編集主幹G.A.ブガチェンコワ 責任編集E.V.ルトヴェラーゼ・加藤九祚 1991年 創価大学出版会・ハムザ記念芸術学研究所