お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2017年5月1日月曜日

サレバン・ミナレットを探して


メナーレ・マスジェデ・アリー(セイード・アリー・ミナレット)からサレバン・ミナレットへ向かう。
Google Earthより

来る時はメナーレ・マスジェデ・アリーしか見ていなかったが、サブゼ広場の回廊までの通りの反対側は、絨毯工房があったり、
箒などを売っているお店の前でおじさん達がゆっりとした時を過ごしていた。

サブゼ広場の長~い回廊をひたすら歩く。まだ完成しておらず、木製の格子を嵌めている段階らしかった。
広場に出ると、回廊は二階建て風だが二階は尖頭アーチ形の開口部のある壁だけ。
マスジェデ・ジャーメの南ドームや西イーワーンの上の方が見えていた。
その対面
大きな円形に開いた明かり取り?それともここにドームが架かるのかな。このような天井は交差点に造られることが多い。
この丸い穴はGoogle Earthでも確認できた。サブゼ広場の北東角までやって来たのだった。
広場は終わっても、この通廊はまだ続いていて、すでに開業した店舗が見えてきた。
やっとアーケードの端が見えてきた。レザーさんはサレバン・ミナレットへの行き方を尋ねてくれている。

回廊を出ると、マスジェデ・ジャーメの方に向かった。
これくらいの距離でマスジェデ・ジャーメは南ドーム、西イーワーン、東イーワーン、神学校の南北イーワーン、407のサファヴィー朝期に建造されたドームあたりが見えている。北ドーム(ゴンバディ・ハーキ)は見えない。
左手にはクレーン
もうすぐ取り壊されるであろう建物の奥に、修復されたらしいこんなドームもあったが、何だろう?
ここからは南ドームの八角形から十六角形そして円となる移行部がはっきりと見える。その手前のもこもこ屋根は彷徨った南東礼拝室?
東イーワーンと神学校の南イーワーン(ムザッファル朝、14世紀後半)。そしてその間には東入口のイーワーン(サファヴィー朝期)も見えている。
地下駐車場への出入口前から右方向へ。
マスジェデ・ジャーメ東入口は左の商店街の間から。
右はレトロな商店が建ち並んでいる。いつまでも立っていてほしい。しかし、Google Earthで見ると、この通りの先には地下を通る道路がのぞいているし、前方には新しい建造物が見えている。
そのレトロな建物群と工事現場の間を行く。
左折してカマール・ザリン・モス(Kamar Zarin Mosque)に沿って進む。
新しくできるものがある傍で、壊されていくものもある。

八百屋もあった。

直進していたが、こんな狭い道を右折して南下。
次の四つ角の南西隅に銀色のドームの架かる町のモスクがあった。ここで左折

商店街ではないが、小さな交差点はこのようなドームが架かっていることがある。
ここでもレザーさんはサレバン・ミナレットへの行き方を尋ねてくれている。道が入り組んでいるので、どのように歩いていけば良いのかは、地元の人に聞くのが一番なのだ。
おっ、尖頭アーチの先にサレバン・ミナレットが。あの電信柱がなければ良かったのに・・・
次のドーミカル・ヴォールトも新しい。
このアーケードの右端に、こんな奇妙な物が置かれていた。風鈴?
下の段には雄鶏、壺、鈴を付けた大口が左右対称に配置されているのに、上の方は左に傾いている。
アーケードを出て右の壁には大きな蝋燭立てが置いてあった。

道端で布団にキルティングをしているおじさん。帰りに通ったときもいた。
4車線のカマル(Kamal)通りにまでやってきた。右の木の小枝越しにサレバン・ミナレットが。もうすぐだ。
ここで来し方を振り返る。
Google Earthより

結構な交通量の通りをみんなで渡り終わると前方のアーケードへ。
中に入るとアーケードは左に折れていた。
近寄ると姿は見えなくなる。
もう少し進歩くと、念願のサレバン・ミナレットが再び姿を現した。
あの頂部の開口部からアザーン(礼拝への呼びかけ)を朗唱していたのだ。お昼前なので、こちらから見ると日陰だが、空色タイルははっきりとわかる。
真近になって、やっと全体を見ることができた。メナーレ・マスジェデ・アリーから30分もかかって、ようやくここまでやってきた。本日2つめの夢が叶った。

空色タイルを菱形と楕円に刻んで交互に並べている。矩形を並べただけでも良いのに、何か意味があるのだろうか。
途中の四角い中に、このミナレットの建立時期や献納した人物などの銘板があったのだろう。空色タイルのまわりが白くなったところと、そうでないところとがある。

ミナレットの左から向こうの広場へ回り込む。
きれいに手入れされているが、モスクらしいものはない。ミナレットは礼拝への呼びかけのためのものなので、モスクもあったはず。

『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、11世紀に入ると中央アジアやイランといったペルシア世界で、土色の煉瓦建築の一部に小片の空色タイルが嵌め込まれるようになる。この時代の建築は釉薬のかかったタイルの使用は僅かながら、煉瓦建築の中に次世代のタイル発展の素地となる重要な要素を含んでいたという。
このミナレットのサレバンというのは何にちなんだ名称なのか不明だが、建立年が1130年ということははっきりしている。裏側の、現在は取り外されている銘文パネルに記されていたにしては、誰が建てたのかなどの情報がまったくわからない。
こんな風に2つの出っ張った部分を何と呼ぶのだろう。
さっき遠くから見上げた時に見えたように、上の方は開口部があって、そこからアザーンを朗唱していたのだろう。では下の方は?
それとも、下の方がアザーン用で、上は見張り台かも。遠くから敵が襲来するのをいち早く見つけるという役割も、ミナレットにはあったと聞いたことがある。
柱身には6点星、六角形、正方形などの幾何学文様があるが、これは11世紀後半のマリク・シャーの治世に造立されたメナーレ・マスジェデ・アリーの下半の文様と同じ文様。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、単色の煉瓦では文様は必ず凹凸を用いて表現するとかないという限界があったという。
上のムカルナスは空色タイルの縁取りはなく、その下には空色のインスクリプション帯がある。
下の方はもう少し複雑な造りで、やはり下にインスクリプションが巡っている。
果たして、下からこの文字を読める人はいたのだろうか。
ムカルナスの曲面は、正方形の小さな素焼きレンガでつくられている。
二層のムカルナス
上の段は中央で折れたムカルナス、その下は短いものと長いものが交互に配される。短いアーチの下はイーワーンのようになっていて、その下には4点星が4つ、長いイーワーンの方は6つずつ2列配されたりと、規則的な装飾がある。各イーワーンの外側にも1本ずつ付柱があって、その柱は上側のムカルナスまで達している。また、イーワーンの柱とこの付柱は、内側から突き出した木材で支えられている。
インスクリプションには長方形の空色タイルを様々な形に切って文字にしている。
上下それぞれに文様を素焼きタイルで構成したものの間には、空色タイルが入り込んでいる。菱形を繋いだり、した帯の間には、字体の異なるインスクリプションが巡っているように思える。
別々の名前の図案化したものを斜め右方向に繰り返している。どれがムハンマドで、どれがアリーなのか、全くわからない。
楕円と菱形のトルコブルーのタイルが並んだ段の下は文様がない。

Google Earthに貼り付けられた写真のタイトルにはMinaret Sareban(Minaret of the Cameleer)とある。ひょっとすると、隊商が目印としたミナレットだったのかも。

私一人のリクエストに応じて付き合って頂いた人たちは、また延々と歩いて地下駐車場まで歩き続けることとなった。この写真でその謝意に返させて頂きます。
来る時は車が右通行なのに右側を歩いたが、戻る時は左側を歩いている。暑いところでは、人は車の通行に関係なく、日陰を歩くのだと、この写真を見て気が付いた。

   メナーレ・マスジェデ・アリーを探して
             →イスファハーン スィー・オ・セ橋とハージュ橋

関連項目
イランに残るレンガ建築
ミナレットの空色嵌め込みタイル
クニャ・ウルゲンチ4 クトゥルグ・ティムールのミナレット
空色嵌め込みタイル1 12世紀
ムカルナスとは
タイルの歴史

参考サイト
金沢大学学術情報リポジトリより 深見奈緒子氏のヴォールティングの諸形態 1998年
captainfutureさんのIRAN 4 Esfahan バザール迷いながらモスク巡り、マスジェデ・アリー、ジャーメ

※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館