2020年に発行された青木健氏の『ペルシア帝国』(講談社現代新書2582)によって、2016年に訪れたパサルガダエの建造物について、従来とは異なった事実が明らかとなりました。
下記の記事はそれ以前の文献や説明に基づいて作成したので、新しい記事パサルガダエの遺構に新説も併せてご覧下さい。
『ペルシア建築』は、前560年頃になると、アーリア人の二大強国たるメディアとペルシアがアケメネス朝の初代たるキュロス大王によって統合され、ペルシア帝国が成立した。そして、キュロスと後のダリウス1世という二人の傑出した人物のもとで、西アジアの全土が世界史上最初の大帝国に組織されていった-しかも、それが230年間も存続した。ナイル川からオクサス川まで、エーゲ海からガンジス川まで、広大な地域に新時代が開かれるとともに、未曾有の安定が保証された。卓抜な行政制度が敷かれる一方、効率的なコミュニケーションのネットワークが交易を促進し、莫大な富を産み出した。スーサからサルディスに至るアケメネス朝の帝国幹線道路は2500㎞以上に達し、キャラヴァンのための総数111にのぼる宿駅とあいまって、帝国全土にわたる物資の輸送を90日以内で可能とした。スーサからペルセポリスまでと、スーサからエクバターナまでのルートは舗装さえしてあった。これらはすべてローマ帝国の道路網の先駆をなすものと言える。
権力と神寵の表現として、キュロスは先ず前550年頃、ファールス地方南部のパサルガダエに、宮殿と神殿の複合体の建設を開始したという。
『世界の大遺跡4』は、ペルセポリスの近くを流れるポルワール川に沿い、山間の地をたどって北におよそ70㎞さかのぼると、突然ムルガーブ平野が開けてくる。パサルガダエの遺跡は平野の南端、ポルワール川を通じてペルセポリスにもっとも近い、丘にかこまれた数㎞の平地に点在しているという。
Google Earthより
同書は、前550年にメディアを征服し、メディア王の財宝をエクバタナからペルシア本国に運ばせた。こうして、新しい権力者にふさわしい王宮と宝蔵の建設が必要になった。3年後、キュロス2世は小アジアに進軍してリュディア王国を滅ぼすと、多くの戦利品とともにリュディア人やイオニア人の石工を連れて帰国した。パサルガダエに本格的な都城建設工事が開始されたのは、この時からである。今はすっかり寂しくなってしまったが、当時はポルワール川から1㎞以上も引いてきた水路によって、王宮附近はゆたかな緑につつまれていたという。
Google Earthより
北側から
Google Earthより
①タッレ・タフト要塞
『世界の大遺跡4』は、北方の高台には堅固な城砦施設が築かれて、パサルガダエ地域の護りに当たっていたという。
『ペルシア建築』は、おびただしい切石を積み上げた壮大な人工基壇という。
レザーさんは、ここが町の入口です。町に入る時は厳しい検査がありました。アケメネス朝の建国者、キュロス2世が建てましたという。
要塞はタレ・タフトの丘の上に築かれた、かなりの規模のものだった。今ではその北西面の石積みが残っている。
Google Earthより
積み上げられた切石は、高さは揃っているが、端の方が大きく、中よりのものは小さい。
そして穴が目立つ。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのパサルガダエは、石と石の接触面はきれいに磨かれ,縁部分を研磨して滑らかにし,残った中央部分からやや窪ませている。このように接続する切石の表面に凸凹を付けることで,切石の接合を強化しているという。
穴は、全てということもないが、切石の左右上端に、ほぼ同じ大きさであけられている。崩落した切石を修復して積み直した壁面も角が欠けた石が並んでいるが、この切石の場合、人工的に開けられたようだ。
中央アジアでもイランでも、モスクなどの建物の上端に壁に対して直角に長い棒状のものが突き出ている。それが樋だったが、乾燥地帯に、こんなに密に樋が必要とも思えない。
もっと古い時代のジッグラトにも穴があり、内部からの排水を考えた流し孔と考えられているという(『世界の大遺跡4』より)。
その流し孔が、本来の役目から装飾になっていたのかも。
奥の方は詰まっている。
北辺を回り込んで登っていく。
切石の側面
大きな丘
転がった大きな石が、当初は上の方に建物があったことを思い起こさせる。
北側の景色。合成したらまっすぐな北壁がカーブしてしまった。
鎹の跡
左側のやや凹んだところには柱列が一列。手前にはその列から外れて一つ、柱礎が残っている。
今まで見てきた柱礎は上が平らだったし、他の柱礎は平らなのに、これだけが凹面になっている。
西壁からの眺め
小さなオアシス
西壁に沿って南の端まで。
南壁の右端は直角に出っ張っているように見えるが、
横から見る。向こうの頂上手前に低い段のようなものがある。
それは、ダリウスが造った日干しレンガの壁とのこと。
南方の眺め。
道路の傍にあるのが②ソロモンの牢獄
その左向こうに③宮殿、ずっと奥に⑧キュロス王の墓
②ソロモンの牢獄へはバスで向かう。それほど広大な遺跡。
昔からの言い伝えによると「ソロモンの牢獄」ということだが、遺跡での平面図には「石の塔」となっている。
長方形の段が3つ、その上に各角が出っ張っている建物と、その入口への通路とが描かれている。
拝火教神殿という説や、アケメネス朝第2代の王、カンビュセス2世の墓という説もあると、レザーさんは言う。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのパサルガダエは、高さは14mほどという。
中央下半分に妙な石材が嵌め込まれている。座ったライオン像のようにも見えるが、平面図では、ここに階段から続く入口が開いているので、こんなものがあれば邪魔だったのではないのかな。
この縦長の凹みには金が嵌め込まれていたのだとか。
頂部は右隅から斜めに出っ張っているが、庇のようなものがあったのだろうか。ギリシアのイオニア式オーダーのデンティル(歯形装飾)のよう。
大きな石材から切り出した4段の階段が残っている。中央は斜路ではなく、レザーさんは29段の階段だったという。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのパサルガダエでは、残っている階段のはばから推測して30段あったと考えられるという。
周囲を回る。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのパサルガダエは、最下層の床は14.82×14.72mあるという。
平面図で見るよりも正方形に近い。
正面の切石よりも大きな石材が、側面に積まれている。
その表面には動物の絵が刻まれているが、建立時の装飾ではなく、崩壊した後の時代に描かれたのだろう。こんなものも「岩絵」と呼ぶのだろうか。
背面
右手前には三角形らしい切石がある。デンティル装飾のある頂部の飾りかも。その奥には、壁面に積み上げる切石だけとは思えない、丸みのある石材が積み上げられている。やっぱり何かの像もあったのかも。
端が出っ張った長い石材も転がっていた。
平たいものや厚みのあるものなど、石材はさまざま。
突っ支い棒の下端まで建物があったように思ってしまうが、平面図によると、四面はほぼ同じ長さの正方形。
ペルシア語の落書きや太陽を表しているのか、円から十字の線が出ている絵など。でも、この壁面には、正面と同じ縦長の凹みがある。これは確かに建物の表面だろう。
復元された姿を見てみたいものだ。
『ペルシア建築』は、聖火のためには方形の塔があった。この塔は今では崩壊しているが、ナクシェ・ロスタムにある塔とよく似ており、その類似性は拝火信仰の歴史がいかに古いものであるかを物語るという。
ナクシェ・ロスタムの矩形の建物と共にこちら
この付近で咲いていた花についてはこちら
ヤズドからパサルガダエへ← →パサルガダエ(Pasargadae)2 宮殿
関連項目
パサルガダエもナクシェ・ロスタムも拝火神殿ではなかった
パサルガダエ(Pasargadae)3 キュロス2世の墓
※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのパサルガダエ(現在は閉じられています)
※参考文献
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社