ペルセポリスを出て郊外で昼食。その後北に向かった。
Google Earthより
ナクシェ・ロスタムは岩山にアケメネス朝の摩崖墓とサーサーン朝の浮彫がある。
Google Earthより
全体としてはこんな風。十字形のアケメネス朝王墓は崖に十字形に彫られており、サーサーン朝の浮彫は下の方にある。
『図説ペルシア』は、ササン朝ペルシアは、イラン民族だが、その栄光の祖先アケメネス朝ペルシア帝国の復興を祈念し、これを上回る帝国を成立させたものだ。
ササン朝時代に大いに栄えたペルセポリス近郊、北西6㎞の地点にあるこの地は、歴代の王の摩崖墓があるという。
クセルクセス1世(アケメネス朝第4代、在位486-465年)の墓とされる。
他の墓のある崖から少し離れて、右に張り出した崖の西壁に位置する。日光が当たってよく見える。修復中なのか、足場?が組んである。
『図説ペルシア』は、3段の基壇から成り、最上段には服属民族によって、その玉座が支えられている浮彫り、十字形をした4基の歴代の王の墓室。中段には宮殿の入口を思わせる4本の円柱と柱廊部の浮彫り、下段は空白になっているという。
ゾロアスター教では人が死ぬと鳥葬されるが、『THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis』(以下『GUIDE』)は、アケメネス朝の王達は、ダリウス大王の時から、ミイラにされ、石窟墓に埋葬されるようになった。このような2つの墓が、ペルセポリスの「王家の丘」に開鑿された。
王の墓は各翼が同じ長さの十字形というが、縦長に見える。
その後は、ほぼ東西に聳える崖に彫られていて、一番東にあるのがこの崖を平たく切ったままのものがある。真ん中辺りに何かあったようにも見えるが・・・
ササン朝時代の王たちの浮彫について『図説ペルシア』は、騎馬姿の王がアフラ・マズダ神から王権を象徴する環を授けられる場面が表現されている。アフラ・マズダ神は、アケメネス朝では空中に現れる翼を持つ半身像(最上段)だったものが、ササン朝では王と同じ人間の姿で、これと向き合う図となっているという。
ナルセー王(サーサーン朝第7代、在位293-302年)の王権神授図
『古代イラン世界2』は、ナルセー王は、アフラ・マズダ神ではなくアナーヒーター女神単独の王権神授図をナクシェ・ロスタムに残した。ナルセー王は甥のバフラーム3世を殺害して王位を簒奪した。それゆえ、歴代の国王のようにアフラ・マズダ神を用いるのをやめ、先祖のバーバクが司祭を務めていたアナーヒーター女神殿(在ナクシェ・ロスタム)で即位を行ったのであろうという。
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その後崖の浮彫はこのようになっている(『世界美術大全集東洋編16西アジア』より)。
ダリウス王(アケメネス朝第3代、在位前521-486年)の墓
何故か十字形の下に歯のような出っ張りが続く。ややオーバーハング気味の崖のためか、十字形のところだけが日陰になっている。
『ペルシア建築』は、この摩崖墓は、明らかにペルセポリスやスーサの建物を模したもので、ポルティコ、円柱、キャピタルその他のディテールまで、まったく共通と言える。そして、このダリウス1世の墓所は以後、同じ岩に刻み込まれていったアケメネス朝歴代の王墓に対するプロトタイプの役割を演じたという。
これがダリウス大王の墓だとわかるのは、左に彫られた碑文にその名が刻まれているから。
その下にサーサーン朝の戦闘の場面が2段に表されている。
バフラーム2世(サーサーン朝第5代、在位276-293年)の2つの戦勝図
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのエラム古王国時代のサーサーン朝期のナクシェ・ロスタムは、向かって左にバフラーム王。右に倒れる敵を描く。背景に旗と旗持ちが彫られているという。
長槍を持った敵の馬は腰から倒れている。バフラーム2世の馬は前肢も後肢も地面と平行になるくらいに上げて走る。
上図と同様に王子の馬は4本の肢を水平に上げて疾駆し、敵の方は後肢で地面を蹴っており、劣勢に表す。
その西側にシャープール1世の勝利図、その斜め上にアルタクセルクセス1世の摩崖墓と続く。
シャープール1世(サーサーン朝第2代、在位266-272年)の勝利図
『古代イラン世界2』は、シャープール1世はローマ帝国と三度戦い、戦況を有利に進めたが、それを誇示した戦勝図をナクシェ・ロスタムとビーシャープールに残している、前者では、騎馬の国王が一段と大きく描写され、降伏したローマ皇帝(ヴァレリアヌス)が跪いて赦しを請うているという。
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アルタクセルクセス1世(在位前464-424年)の墓
アケメネス朝期の摩崖墓は外観はほぼ同じ。
その下にホルムズド2世(サーサーン朝第8代、在位302-309年)の騎馬戦闘図
『イラン世界2』は、ナルセー王の息子のオルムズド2世はナクシェ・ロスタムにサーサーン朝騎馬戦闘図の嚆矢ともいうべき傑作を残しているという。
全速力で疾駆する馬に乗った王が、槍で敵を突いて、馬も人ももんどり打って倒れる瞬間を表している。
崖の南側に拝火神殿と言われている矩形の遺構があった。
パサルガダエにあった遺構よりもよく残っている。この建物について詳しくはこちら
ダリウス2世(アケメネス朝第8代、在位前422-404年)の墓
その下にシャープール2世(サーサーン朝第10代、在位309-379年)の戦闘図
平たく削った画面の右半分にだけ浮彫がある。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのサーサーン朝期のナクシェ・ロスタムは、カーベイェ・ザルドゥシュトの向かい正面,ダリウス二世の墓の下に彫られている。中央にシャープール二世と思われる王が敵を殺しているという。
カーベイェ・ザルドゥシュトは拝火神殿ではないかとされてきた建物。
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シャープール2世の後ろにいる人物は軍旗を持っている。軍旗についてはこちら
少し離れて、また何も彫られていない画面
これで終わり?
下ばかり探していたが、崖の上の方に浮彫があった。右端の人物は平たく浮彫されているように見える。
しかも曲面に彫られている。
バフラーム2世(サーサーン朝第5代、在位276-293年)とその家臣
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのエラム古王国時代のナクシェ・ロスタム浮彫跡は、ナクシェ・ロスタムの遺跡にはエラム王国時代からものがみられる。場所は左端から2番目の浮彫「バフラーム二世とその家臣」のところという。
きっと右の面に彫られていた人物もエラム時代のものだろうが、詳しくは後日
このサーサーン朝時代の浮彫は何故かエラム時代の浮彫を再利用している。その上、サーサーン朝のものは王権神授の場面か戦闘の場面なのに、ここでは、両側の塀の奥に家臣たちが並び、その中央には王冠の分だけ高い王の全身像が表現されている。
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まだ続きがあった。
アルダシール1世(サーサーン朝初代、在位224-241年)の騎馬王権神授図
サーサーン朝でも最初は上の方に彫ったのだ。
『古代イラン世界2』は、王と神は騎馬姿で描写されているが、騎馬の国王の王権神授はパルティア美術に範をとったものであろう。構図はイラン美術に伝統的な側面観と左右対称性を重視しているという。
サーサーン朝の建国者の時代に、すでにこんな高浮彫。
王とアフラマズダ神の乗る馬は、どちらも敵を踏みつけている。
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ペルセポリス5 博物館からアルタクセルクセス3世の墓←
→ナクシェ・ラジャブ サーサーン朝の浮彫
関連項目
敵の死体を踏みつける戦勝図の起源
軍旗とスタンダード
銀製皿に動物を狩る王の図
サーサーン朝の王たちの冠
サーサーン朝の王たちの浮彫
アケメネス朝の王墓
ナクシェ・ロスタムにエラム時代の浮彫の痕跡
パサルガダエもナクシェ・ロスタムも拝火神殿ではなかった
※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのエラム古王国時代のナクシェ・ロスタム浮彫跡・サーサーン朝期のナクシェ・ロスタム
※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団