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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2017年7月6日木曜日

ペルセポリス(Persepolis)2 ダリウスの宮殿からハディシュ


遺跡全体図(『Persepolis Recreated』より)。
①入口大階段 ②万国の門 ③アパダーナ(謁見の間) ④ダリウスの宮殿 ⑤H宮殿 ⑥G宮殿 ⑦クセルクセスの宮殿(ハディシュ) ⑧クセルクセスの宮殿の東入口 ⑨トリピュロン ⑩屋根の架かったアパダーナ東階段 ⑪未完の門 ⑫百柱の間 ⑬ハレム ⑭宝物庫 ⑮アルタクセルクセス3世の墓 ⑯アルタクセルクセス2世の墓 ⑰城塞

アパダーナの次は④ダリウスの宮殿。
ダリウス王については、キュロス2世の家系ではなく、息子のカンビュセスが自殺した後に王朝を簒奪したのではなかったかな。
アパダーナとは比べようもないほどにささやかな宮殿。ものの大きさというのは、現地に来てみないとわからない。コの字形の石造物が所狭しと立っている。
THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis』(以下『GUIDE』とする)は、階段の北側には幾つかの遺構が残っている。一つの石塊から削り出した小さな水盤は水路に繋がっていて、水路は南の庭園へと続いているという。
西側に階段
階段の両方を写そうとしたら斜めになってしまった。
『GUIDE』は、主広間と他の部屋は矩形の壁龕が具えられている。それぞれは一つの石の塊を彫り出していて、エジプト風カヴェット・コーニスとして知られる縦縞浮彫が載っている。当初は、主広間の壁には5つの扉があった。2つは4つの円柱のある北の一対の部屋に繋がり、一つは南柱廊へ、そして2つは東西の隣接する部屋に繋がっていた。ダリウス大王の170年ほど後、アルタクセルクセス3世は西側に階段を造り、そこから控えの間を通って主広間に行けるように改築した。非常に美しく彫った碑文を挟んで、朝貢使節団を表して、階段の壁面を飾った。それは古代ペルシア語最後のものとして知られている文章で、多くの文字や文法の間違いがあるが、アルタクセルクセスを讃美しているという。
『ペルシア建築』は、この宮殿は特定の儀式に際して一時的な宿所として用いられていたらしいというが、ダリウスの時代にはこの階段はなかった。
王の姿発見。階段はなくても、この浮彫はあったのかな。
その後ろの扉口では、短剣を持った王がライオンを刺してるし。
アッシリアには王の獅子狩りの浮彫があり、王の印章には、この浮彫に似たライオンを刺す王という図がある。それについてはこちら
南側
『GUIDE』は、ペルセポリスの宮殿で最も古く興味深いものの一つはアパダーナの南に建てられたもので、後に建てられたものよりも2.2-3m高い基壇で中庭がある。柱に彫られた碑文には、この建物はタチャラと呼ばれていた時期があり、別の時代にはハディシュと呼ばれていた。それより前の名称が広く受け入れられ、使われている。磨き上げた黒い石の輝く表面によって、鏡の間とも呼ばれた。
タチャラは40X30の長方形平面に南北の軸線で建てられた。12本の円柱のある主広間と、北に円柱のある2つの小さい部屋、南に柱廊玄関、そして幾つかの監視員の部屋または貯蔵室が各面にある。2つの階段は南の中庭から柱廊へと導くという。
階段の壁には、食べ物や食器を持ち、交互にメディア風とペルシア風の服を着た召使いが表されている。ペルシア人は縦に襞のある帽子を被らず、代わりに頭にスカーフのような布を巻いて、首、頬、顎を覆っているという。
犠牲の子羊や供物を運ぶペルシア人たち。

階段壁面の中央部
『GUIDE』は、ペルシア風の服装の9名兵士の列が古代ペルシア語の碑文に向かい合っている。右端のものはエラム語で、左端のものはバビロニア語で同じことが書かれている。ここでは、クセルクセス王は、最初にアフラマズダを讃美し、次に彼自身を紹介し、最後に以下の文で終わる。
アフラマズダの恩寵により、我が父ダリウス王がこのハディシュを造った。アフラマズダが他の神々と共に我を護り、我によってなされたことと我が父ダレイオス王がなしたこと全てをアフラマズダと他の神々に護らせたまえという。
南階段の想像復元図(『Persepolis Recreated』より)
階段や柱廊玄関だけでなく、南側に4分割された庭園も描かれてる。北側の水盤からの庭まで水路が続いていたのだ。
ダリウス大王の時代、まだアパダーナもなく、この宮殿も完成していなかった。大王が新年祭でペルセポリスに滞在中は、この未完成の宮殿で寝起きしていたとしても、各国の使節団が朝貢に来るということはあったのだろうか。
しかしながら、下の⑤H宮殿の前にあるコの字形のベンチのようなものが、④ダリウスの宮殿の南の庭園にあった遺構だとすると、上の『Persepolis Recreated』の想像復元図よりも、『GUIDE』の復元図の方が、遺構に沿っているようだ。

ダリウスの宮殿の斜め向かい側にアルタクセルクセス1世の⑤H宮殿がある。
『GUIDE』は、H宮殿の北階段のファサードには16人のペルシアの守備兵が古代ペルシア語の碑文に向かい合っている。碑文はアルタクセルクセス3世によって刻まれたものだが、本来はダリウスの宮殿の東側、クセルクセスの宮殿の北側にあったG宮殿の南側に造られたものである。この浮彫のある階段はH宮殿に移動したが、元の階段はアルタクセルクセス1世が造ったという。
階段の隣にも同じような浮彫がある。
やはりこれも階段ファサードだった。
上の方にアフラマズダ神の象徴、有翼日輪の浮彫、下には碑文。

階段を上がって⑤H宮殿の方を見ると、太い円柱のドラムが横に並べられていて、その向こう、おそらく基壇の端には牡牛の角のようなものが並んでいるように見える。
南西方向から見た図版が『GUIDE』にあった。クノッソスの宮殿を想い起こさせる牡牛の角だがあまりにも時代が違いすぎるし、大小交互に並んでいる。

⑥G宮殿
『GUIDE』は、石の基壇がアパダーナ、タチャラ、ハディシュの北庭園そしてトリピュロンの間にあった。構造物がこの基壇の上に立っていたが、現在はその残骸が散在しているのが見られる。当初の建物は「G宮殿」と名付けられた。南面以外はぶ厚い日干しレンガの壁で、ハディシュと他の建物に繋がる地下水道を通した完璧な水利施設が備えられていたという。

続きの一段高いところに⑦ハディシュ(クセルクセス)宮殿がある。
ここでもコの字形の扉口だけが残っているが、広い敷地に点在する程度だった。
説明板は、クセルクセスが建てたこの宮殿は、碑文に「ハディシュ」と記されている。クセルクセスの私的な宮殿であった。アレクサンドロスが放った火の痕跡がある。最も高いレベルに建てられている。主広間は36本の円柱があり、北側は12本の柱廊がある。東西には警護室、南には廊下がある。この廊下から住まいに入るために、2つの階段が付いていて、クセルクセスのハレムはハディシュのレベルより7m下にあったという。
かなり広大な宮殿だったようで、部分的に写していくしかなかった。
コの字形の扉口も片側の壁面だけ残ったものも多く、一様に二人のお付きの者が王に傘をかざす場面が浮彫されている。
右側の召使いが日傘を、左の者は蝿払いをかざしている。
クセルクセスの宮殿は、板状の石柱で終わる。
この石柱は2本あって、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の碑文が残っている。
想像復元図(『Persepolis Recreated』より)では碑文のある壁面は分からない。
⑮アルタクセルクセス3世の墓より眺めたクセルクセス1世宮殿、背後の低い土地に⑤H宮殿の牛の角形胸壁が見えている。

ペルセポリス(Persepolis)1 正面階段からアパダーナへ
           →ペルセポリス(Persepolis)3 トリピュロンまで

関連項目
アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成
ペルセポリス(Persepolis)5 博物館からアルタクセルクセス3世の墓
ペルセポリス(Persepolis)4 アパダーナ東階段から百柱の間

※参考文献
「Persepolis Recreated」 Farzin Rezaeian 2004年 Sunrise Visual Innovations
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis」 ALIREZA SHAPUR SHAHBAZI 2004年 SAFIRAN-MIRDASHTI PUBLICATION