お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2017年7月3日月曜日
ペルセポリス(Persepolis)1 正面階段からアパダーナへ
ペルセポリスは前日見学したパサルガダエとシーラーズとの中間に位置している。
Google Earthより
シーラーズから65号線を走り、途中で分かれた。他にも遺跡がありそうなところもあるななどと思っていると、
細い街路樹に囲まれてきて、そこここで草を食む羊の群れを見ているうちに左折して駐車場へ。
さすがにペルセポリス、立派な入口がある。
とはいえ、遺跡は遙か向こう。
『ペルシア建築』は、ペルセポリスの敷地は背後に峨々たる岩山をひかえ、前方に、山並みで囲まれた広い肥沃な平原を望んでいるという。
ガイドのレザーさんは「ラフマット山」と呼んでいた。ラフマットは中央アジアで「ありがとう」の言葉だったが、イランでは慈悲だという。
同書は、すべての建築は一体的に計画されたものであり、建設工事に先立って、岩盤中に給水と排水のための複雑な地下システムが設けられた。奥行270mX横幅450mに及ぶ巨大な基壇は、岩盤を部分的には削り部分的には積み足して造成したもので、周辺を囲む高さ12ないし18mに達する擁壁はすべて大形の切石から成り立つ。切石のなかには1辺の長さが15m、重さが30tに達するものもあり、いずれもモルタルを用いず、空積みにされ、鉄製の鎹で緊結されている。こうした擁壁の上部には、さらに非焼成煉瓦で出来た壁が立ち、その壁の一部は、スーサに見られたものと同様の多彩釉タイル(茶、黄、緑、青)で被覆されていたという。
キュロス大王が建設したというパサルガダエの宮殿は地面とほぼ同じレベルだったし、日本の寺院では、それぞれの建物に基壇があるだけで、斜面でなければ、境内は地上と同じ高さなので、まずこんな高い切石積みの壇の上に宮殿があるということに驚いた。
何故か右端が切れてしまった正面階段。
想像復元図(『Persepolis Recreated』より)
『ペルシア建築』は、ペルセポリスは王朝の祭儀場であったが、決して決して政治的首都ではなかった。偉大な王たちはごく稀に、しかも一時的に、ここに住んだのみであり、あくまで、スーサ、バビロン、エクバターナが政権の所在地とされていた。ペルセポリスは聖なる国家的祭儀場、ノウ・ルーズ(新年祭)と呼ばれる春の祭のための完備した舞台装置に他ならない。ここでは、象徴的演出のあらん限りを尽くすことによって、多産と豊穣がもたらされるよう、神威が懇願されたのであるという。
ということで、これはその儀式に向かう人々が階段を登っていく図である。
階段を登る前にセキュリティ・チェック。
遺跡全体図(『Persepolis Recreated』より)。
①入口大階段 ②万国の門 ③アパダーナ(謁見の間) ④ダリウスの宮殿 ⑤H宮殿 ⑥G宮殿 ⑦クセルクセスの宮殿(ハディシュ) ⑧クセルクセスの宮殿東階段 ⑨トリピュロン ⑩屋根の架かったアパダーナ東階段 ⑪未完の門 ⑫百柱の間 ⑬ハレム ⑭宝物庫 ⑮アルタクセルクセス3世の墓 ⑯アルタクセルクセス2世の墓 ⑰城塞
①大階段
壁には切石積みの苦心の痕跡がそこかしこに。初代のキュロス大王が築いたタッレ・タフト要塞は高さを揃え、しかも四辺を凹ませた石積みとは比べようもないが、あまりにも大きな基壇なので、そんな丁寧な仕事はしていられなかったのだろう。
同書は、アプローチ自体が印象的な力強い姿を見せる。すなわち、幅6.7mという堂々たる二重階段があって、まず左右へ分かれるという。
現在は板の階段があって、遺跡をこれ以上磨り減らさないようにしている。
胸壁(矢狭間)は一つずつ置かれている。敵が侵入してくる外側だけでなく、内側にも門のような彫りが見られる。
左階段の向こうに見える基壇の上には城塞があった。
次いで踊り場から内側へと折り返す。
同書は、この階段の踏面は個々のスラブを組み合わせたものではなく、巨大な石のブロックから一体的に彫り出したものであり、側壁の一部を含んでいる場合さえ稀ではないという。
同書は、騎馬の人物にも適した穏やかな傾斜を持つこの大階段を上り詰め、基壇の上面まで達すると、直ちに、人頭有翼の巨大な牡牛像で守護されたモニュメンタルなパヴィリオンの前へ出るという。
それがちょっとだけ見えてきた。
その想像復元図(周壁をはずした状態)
②万国の門
復元図のような建物を想像するのが困難な遺構だ。
見学者が記念撮影しているので、正面を避けて写す。
メソポタミアのラマッス(人面有翼牡牛像)は、前面観と側面観を同時に表しているために肢が5本あるのだが、この牡牛像は4本だ。その上翼もない。
入口の壁面上部には3つの銘文がある。
『ペルシア建築』は、クセルクセス王によるインスクリプションが、これは「万国の門」であると宣しているという。ペルセポリスを造ったのはダリウス大王というが、その息子クセルクセス1世(在位前486-465年)が建立した門だった。
同書は、事実、このパヴィリオンを通ると、人々は圧倒的な荘厳さを持つ別世界へ入ってゆく。高い壁が日常的な世界を遮断するとともに、色彩に映えまばゆい金属的なきらめきで荘厳の限りを誇示することによって、そうした外界の存在を忘れさせてしまうのであるという。
その想像復元図(『Persepolis Recreated』より)では、柱礎や柱頭が部分的に金色になっている。金泥ではあまり輝きは得られないだろう。金箔を貼り付けたのだろうか。
しかし、遺跡となった現在では、朝とはいえ、熱い太陽の光を遮るものさえなく、ひたすら耐え続けることになる。
平面図にあるように、門内は4本の円柱があった。この柱頭のどれかに金の痕跡が残っていたのだろう。
手前に万国の門の壁面の土台。正面に③アパダーナ(謁見の間)、向こうのコの字形が集まっているのが④ダリウスの宮殿。
円柱群を通り抜けるとラマッスがまた現れた。
こちらはメソポタミアのものと同じ人面有翼牡牛像だが、やっぱり4本肢。
もう少し顔が残っていたら・・・
出入口上の出っ張った装飾は、『ペルシア建築』によると、葦の形に似たカヴェット・パターンを持つコーニスという。
後にアパダーナから見たB:万国の門
東西にあるラマッスの門だけでなく、南側にも出口があった。
『Persepolis Recreated』は、各国から来た高僧たちと使節団はここに集まり、黒大理石のような石の輝くベンチに腰掛けた。南側の扉から偉大なるアパダーナへと案内されたという。
凹凸のある壁の間の通路をそのまま真っ直ぐに進んでいく。
左手には鷲グリフィンの柱頭が2つ並んでいる。どれも前肢や頭部は表現されているのに胴部は平面のまま。
説明板は、鷲グリフィン(ホーマ)は短い柱の上に乗っている。この場所、軍隊道路の北側で1954年に発見された。本来は構造体として用いるはずだったが、未完で適していないため、あるいは建築家の好みが変わり、このタイプの柱頭が好まれなくなったために、見捨てられ、放置されたようだ。事実、ペルセポリスでは使われることなく、トルコ出土のペルシア製の鉢に鷲グリフィンが8体表されていた。この鷲グリフィンと呼ばれているホーマは、イランで伝統的な吉兆の鳥とされてきた。そのため、イラン航空ではシンボルとして使っているという。
足の長い小鳥が耳に留まっていた。
その後、やや折返し気味に③アパダーナ(謁見の間)に向かった。
同書は、建物と建物との間の空地は庭を形づくり、それぞれ植栽を伴っていたという。
屋根の架かっているのは東階段。その庭を通って北階段へ向かう。
『ペルシア建築』は、不規則な地形がさまざまな高さのテラスに整形された結果、個々の建物はそれぞれ独自の基壇を具え、独自のモニュメンタルな階段によって出入りする形式をとったという。
展示されていた牡牛の柱頭
基壇の側面は日陰でよくは写らなかった。
階段のファサードも日陰で、牡牛に襲いかかるライオンの浮彫も良くは写らなかった。
続く場面は兵士達が碑文を挟んで向かい合う図だが、碑文は残っていないようだった。
反対側も同じように造られている。
基壇下部は、貴族か家臣が行進している場面。
丸い帽子と縦溝のある帽子を交互に被っている。多くは進行方向を向いているが、中には後ろを向いた人もいる。
襞の表現はギリシアっぽい。ひょっとしてイオニアから連れてきた工人が彫ったのかも。
階段内側には、箙を背負い、槍で地面を突きながら行進する小さな兵士たち。上面には羽毛が表されている。そして、ここでも階段は全体を彫り出したもの。
基壇側も同じような兵士の列が続く。
それは、階段が終わる高さまで続いている。
この北階段の西側には各国の朝貢者の列の浮彫があるが、もう時間がなかった。しかし、大阪大学のイラン祭祀信仰プロジェクトの北階段朝貢の列でそれを知ることができる。
アパダーナの想像復元図(『Persepolis Recreated』より)で見ると、北側の階段から6X2列の柱廊玄関へ来たことになる(右側)。
『ペルシア建築』は、ペルセポリス全体の中で最も重要な地位を占める建物といえば、それはクセルクセス王のアパダーナであって、外側を測ると方76.2m、中央の広間が方59.4m、3面に付くポルティコがそれぞれ奥行19.8mという値を持つという。
図では、同じ北側の柱廊玄関から各国の使節団が入って行く。手にはそれぞれの国の特産品を持っている。
基壇にあがると柵があり右手へ。
ギリシア神殿の円柱のように縦溝(フルーティング)がある。パサルガダエの円柱には縦溝はなかった。
キク科の花を伏せたような柱礎、暑いので円柱の陰で説明を聞く。
高い矩形の台座の間を通ってアパダーナ本殿へ。
北柱廊玄関から広間へ進むある国の使節団(『Persepolis Recreated』より)。
後方がB:万国の門
アパダーナの広間中央部。奥に見えるのは④ダリウスの宮殿。
各国の使節団は南最奥部(上の写真では右方向)にある玉座へと向かっていく(『Persepolis Recreated』より)。
しかしわれわれは広間を進めず西の柱廊玄関方向へ。
西端から東方向を眺める。ここからは遠く東の柱廊玄関に残る円柱5本が見える。背後の覆いは、アパダーナ東階段を保護するために架けてある。
後ほど東階段を見学した時に写した。東階段の浮彫についても後日
ついでにラフマット山に開かれたアルタクセルクセス3世の墓より見下ろしたアパダーナも。
見学ではアパダーナの西側を進んで行った。肝心のアパダーナ広間には円柱は少なく、残る柱礎も状態は良くない。
南壁に設置された玉座に座したクセルクセス王は、使節団の挨拶を受け、朝貢品を受け取った(『Persepolis Recreated』より)。
このような建物の外観や内部、その中で行われていた場面などは、現地では全く想像できない。イランではまだ図録や書籍が十分には発行されていないが、さすがにペルセポリスでは、実際の建物と想像復元図を組み合わせた『Persepolis Recreated』や詳しい説明書などが揃っている。
シーラーズ マスジェデ・ナスィーロルモルク←
→ペルセポリス2 ダリウスの宮殿からハディシュ
関連項目
アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成
アパダーナの階段中央パネル
アパダーナ東階段の各国使節団
柱頭彫刻
ペルシア風ラマッス
ペルセポリス5 博物館からアルタクセルクセス3世の墓
ペルセポリス4 アパダーナ東階段から百柱の間
ペルセポリス3 トリピュロンまで
※参考サイト
大阪大学のイラン祭祀信仰プロジェクトの北階段朝貢の列
※参考文献
「Persepolis Recreated」 Farzin Rezaeian 2004年 Sunrise Visual Innovations
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会