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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2017年8月20日日曜日

チョガ・ザンビール(Tchoga-Zanbil)2 ジッグラト南東から北東面


説明板にあった遺跡地図
1ジッグラト 2内壁の南東の門 3内壁の南側の門 4内壁の北東の門 5内壁の北方の門 6ナピリシャ神殿 7キリリシャ神殿 8イシュニカラブ神殿 9西方の門 10神殿群 11ピニキル神殿 12アダドとシャラの神殿 13シムトとベレトアリの神殿 14ナプラテプの神々の神殿 15ヒシュミティクとルフラティルの神殿 16中壁の北東の門 17中壁の南東の門 18ヌルキブラト塔 19閉じられた門 20南東の複合建物 21中壁の南西の門 22複合住居 23水利施設 24ヌスクの神殿 25墓室のある宮殿 26第2宮殿 27第3宮殿 28外壁の東方の門
11から14の神殿群を見た後、いよいよジッグラトへ。
黒いズボンに白い上着、その上白い布を頭から被っているのは遺跡の研究員。因みにチョガ・ザンビールでは43℃あったが、日本人よりも暑さに参っている様子。
ジッグラト南東部に設置された内壁。外側にも敷レンガ(塼)の破片のようなものが散らばっている。
その3南側の門から神域に入る。
意外と狭い。
ジッグラトの南東面の前に出た。ジッグラトの前にはロープが張ってあり、その向こうには近づけない。
ガイドのレザーさんの左にいる人は、この遺跡の関係者で、いろいろとレザーさんに説明し、レザーさんはそれを日本語に翻訳して伝えてくれるのだった。
中央右寄りにアーチ門、その前には階段があり、ジッグラトへの入口になっているみたい。
何とこの研究員は、階段の前にある供物台をよけて、階段を登っていった。特別に見学できることになった。
これがエラム人が発明したというアーチ。
まだ初期なので、アーチを構成するレンガの大きさが均一ではない。
右少し下には楔形文字の銘文。ウンタシュ・ナピリシャ王の名が記されている。
入って左にこんなものが。石に穴を開けたもので、壁に埋め込んである。そこまでしなくてはならないものだろうが・・・木扉を固定するものでは?扉口の両側に取り付けて、棒を渡すと考えると、閂とか。
左にもあったが、この方向では閂の役目を果たさないし、右にあるものとは形もちがう。
長槍をこの穴に通しておいたとか。
東側へと部屋は続く。
ジッグラトから流れた水はこの排水溝から外に出しました。
アーチをくぐって左壁に2つの閂が。
アーチにも木扉があったのだろうか。2つも必要ないと思うけど。犠牲の牛などを繋いでおいたとか。
大きさも微妙に異なる。
後日見学したテヘランの国立考古博物館でチョガ・ザンビールのジッグラトからの出土物として、似たようなものが展示されていた。
bolt of the door(閂鎹)という名称だった。
そしてこの写真も。右上のものは、多分入口近くにある閂鎹だろうが、手前に置かれているものは何だろう。
アーチの左下に土製の輪っか。壺でも置いていたのかも。
ここが東の端の部屋。ずっと続いているのかと思った。

外に出て供物台にびっくり。
焼成レンガにコバルトブルーの釉薬が残っていた。
アーチ門の続きに南東面の中央部がある。
階段は2層目くらいまでしかないのだった。
そして通路の両側の低い長方形の基壇には何かが並んでいる。
『メソポタミア文明展図録』は、門のうち最も重要なのは「王の門」で、太陽の昇る南東を向いていた。最も荘厳な場所である「王の門」とジッグラト頂上の神殿は、煌めく装飾で表面を覆われていた。装飾は煉瓦のほか、中央に突起があり隅に花弁のモチーフのある釉薬のかかったタイルが使われたという。
この突起のあるタイルについては後日
図面では2層目で左右に分かれていて、直接頂部の神殿には行くことはできないようだ。
南西方向から見ると、入口前方左右に7つずつ何かが置かれている。
拡大すると、あまり完成された姿とは言い難い。
基壇に並ぶものは、14個の小さなピラミッド型構造体とされている。
説明板は、不完全なピラミッドの形をして、7個ずつ2列になってジッグラトの階段から出ている。シト・シャムシュという名の祭司たちが行う行事に使われたという。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトチョガー・ザンビールは、南東門の前には通路に沿って14個のピラミッド状の石が並んでいる。祭官によって夜明けの間に行われたシト・シャムシという儀式と関係があるのではと推測されている。なお、ジッグラト全体の特徴であるが、床面は煉瓦の石畳が敷かれているという。 
内壁の2南東の門からの参道がやはり斜めについている。
『世界美術大全集東洋編16』は、発掘によって明らかにされたこの遺構の特徴をつぶさに見ると、メソポタミアの事例、とくにウルナンム王が関与したと伝えられるジッグラトとはつぎのような点で相違する特徴が多くあることに気がつく。
・正方形を基本とする平面構成となっている。
・105.2m四方という平面規模は、メソポタミア建築史上最大を誇るバビロニアのジッグラト(1辺91m強)すらも及ばない。
・頂に至るすべての階段は、正方形をなす基壇の外には突き出させず、平面上はその中に収める。
・第2、第3、第4のテラスをすべて地面から同心円上に立ち上げる。
・レンガの目地に、天然アスファルトや植物質マット(葦や椰子)を挿入しない。
これらが、よく知られたウルアカル・クフの遺構にはない、独特の要素となっている。
注目すべきことに、ギルシュマンはまた、ジッグラト建設の経過を2時期に区分する。このジッグラトは当初、67.2m四方の広い中庭を有し、かつその南東辺に主神インシュシナクの祭室を置く日干しレンガ造りの神殿だった。中庭全面を、なぜか建物周囲の地面より2m沈ませて焼成レンガで舗装する。主たる祭室は中庭に正面を向け半円アーチ形にレンガを積んで開口する。門構えも備えていた。これが第1期の神殿建物である。この中庭を、びっしりと日干しレンガを積み上げて埋め、もとの神殿四周には焼成レンガを206mの厚さに付け足して被覆とし、補強のため裾壁も巡らせた。第1期の神殿は、こうしてジッグラトの第1段となったのである。
このような経緯から、新都の主神殿建設にあたったウンタシュ・ナピリシャ王が、計画をのちになって突然変更したように思えるのだが、その辺の事情は定かではない。それはともかく、王が自らの体験のなかで強く印象づけられたメソポタミアの先例を抜きにして、このジッグラト建設の計画などありえたはずがないことだけはたしかであるという。
斜路の西側に、焼成レンガを矩形に敷いたところを柵で囲んでいる。何か特別な場所?
そして、これくらいからでないと気付きにくいが、入口には正面の階段だけでなく、脇にも狭い階段がある。おそらく左右対称に、階段も両側に造られていただろう。これこそメソポタミアのジッグラトの三方に設置された階段の名残ではないだろうか。
南西角からジッグラトの南東面を見渡す。

その後北東面へ。
焼成レンガの内側の構造がよく分かる。横一列に焼成レンガを並べ、日干しレンガを数層積み、その上に焼成レンガを一列並べということを繰り返している。

正面入口
説明板は、南東の階段に似て、この門は第1テラスに備え付けられている。焼成レンガで覆われた床がその前にあり、宗教儀式の場のようである。その両側にはそれぞれ牡牛と、神話のグリフィン(鷲獅子)のテラコッタ像が置かれていたという。
この入口も入ってすぐに左右にしか行けない構造になっている。
正面右側には南東面には見られなかった盛り上がりがある。斜面の上は平たくなっている。
ウンタシュ・ナピリシャ王が馬に乗って上がるために斜めになっています。
それは途中で終わっている。
チョガー・ザンビールは、南東面と同様に入り口の近くにはスラブ状の焼成煉瓦を積み重ねた高台になっているところがある。宗教儀式が行われていたのであろうとされている。なお、この入り口のところから巨大な牛の象(テヘラン考古学博物館所蔵)が出土したという。
牛の像については後日
排水口にもアーチが。
ここにもコバルトブルーの釉薬がわずかに残る彩釉レンガ
銘文のあるレンガも
これはチョガ・ザンビールのジッグラトでは使われていないはずの植物質マットでは?
この丸いものは拝火教の祭壇跡?


   チョガ・ザンビール1 中壁東隅の神殿群←       
              →チョガ・ザンビール3 ジッグラト北西面から南西面

関連項目
ジッグラトがイラン高原の山だったとは
チョガ・ザンビールの出土品




参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトチョガー・ザンビール(文字化けしているので、IEで開いて、エンコード Unicode UTF-8で正しく表示します)

参考文献
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「古代オリエント事典」 古代オリエント学会編 2004年 岩波書店
「季刊文化遺産8 古代イラン世界」 1999年 財団法人並河萬里写真財団
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「四大文明 メソポタミア文明展図録」 2000年 NHK