チョガ・ザンビールからハフト・テペへ移動。
Google Earthより
一帯は荒れ地の平原だが、たまに小さな集落がある。
日干レンガの家の並ぶ地域。牛もいたが、普通の牛だった。
水溜まりには水牛もいた。葦の家があってもおかしくないようなところ。
農作物の収穫を家族総出でやっている。ハフト・テペ付近の80%はアラブ人だという。
ハフト・テペ
Google Earthより
説明板は、中エラム王国時代(前15-14世紀)の最も重要な中心地となった古代の町の遺構を含んでいる。出土品が、古代名「カブナク」という町に最も相応しいことを物語っている。考古学的発掘は、1965年道路建設の時に古代の屋根のレンガが出てきたことから始まり、1978年まで続いた。2つの日干レンガの複合体と墓地が発掘された。2002年から始まった地球物理学的な観察と発掘で、町の北方に非常に広い壁のある幾つかの大きな複合体が発見された。
2012年、大きな複合体の壁の背後で興味深い発見があった。そこでは数百の人骨が通りに集められていた。かなりの数の死者によって、前14世紀末に、町の破壊と同時に殺戮があったことが推定される。考古学上の形跡はハフト・テペの破壊の後、町はその重要性を取り戻すことがなかった。しかしながら、パルティア時代とサーサーン朝時代に小さく短い居住があったことを示しているという。
ハフト・テペは7つの丘という意味のエラム時代の都市遺跡。背後の樹木のあるあたりに一般人が住んでいた。王宮はまだ発見されていない。
ガイドのレザーさんは言う。前にある丘が1、その奥が2、
続いて3、4、5とあり、6番目の丘はこれから行くお墓になります。
歩いていると、さきほどの大きな遺構の別の面が見えてきた。そして、いつの間にか遺跡の説明をする人が現れた(その姿は後の写真にあります)。レザーさんはその人の説明を通訳してくれる。
ジッグラトです。紀元前14-13世紀のものです。神の名はわからないそうです。左の方には工房がありました。
チョガ・ザンビールのジッグラトよりも古いのでは?
『世界美術大全集東洋編16』は、少なくともエラムにはそれより古いジッグラト、もしくは類似建築があったことが、考古学調査によって明らかにされている。地理的にスーサ遺跡とチョガ・ザンビールの中間くらいにあるハフト・テペと呼ばれる遺跡がそれである。ウンタシュ・ナピリシャが出る以前の王朝が、一時期エラムの都としたことがわかっている。この遺跡中央に、「デザイン・コンプレックス」と呼ばれる日干レンガの塊のような基壇跡がある。平面的には南北75m、東西60mとなり、高さは今でも14m以上は遺存している。その裾では、祭祀用の部屋も見つかっている。これをジッグラトと呼ぶには異論もあろうが、かつては王都を象徴するほどの偉容を誇る建物だったに違いないという推定は許されるだろう。チョガ・ザンビールのジッグラトを、その由来から考える際に忘れてはならない遺跡であろうという。
右に回って通路の正面から写す。
6番目の丘、埋葬複合体へ。7つの丘といいながら、7番目は見つかっていないそう。
説明板は、発掘地区の北側に位置する埋葬複合体には、集団の墓穴として使われたヴォールト天井の2基の焼成レンガ墓があった。この構築物は、数つかの部屋と大きな中庭を含んでいるという。
地面には土器の欠片などが散在する。
埋葬複合体の横にはレンガが敷き詰められた広い空間。
「大きな墓」と呼ばれているところだけ屋根が架けられている。
主な材料は日干レンガであったが、墓室は石膏プラスターで接着した焼成レンガで造られたという。
左奥には小さな凹みがある。
大きい方の墓壙は小さな壁で3つに分割された床。それぞれに遺体が残っていた。それぞれの遺体は一度に埋葬されたのではないことを示しているという。
中央は王、両側は王族の墓だったそうです。
それぞれに浅い凹みがつくられ、その先で縁に切れ目を入れている。左壁面との間には溝があって、排水も考えられて造られている。
焼成レンガを水平に積んだ基礎部分と、縦に並べてヴォールト天井を架けた部分とに分かれている。ヴォールトの方が、焼成レンガの間隔が広く、石膏プラスターの分量が多くなっている。こうした方が、ヴォールト天井が軽く仕上がるのかな。
西側にある小さい方の墓は、23の人骨が発見され、それらは一時期に埋葬されたものであったという。
一段低い位置にある。
こちらはヴォールト天井部分は残っていない。
側面に横積みされた焼成レンガはわずかで、ヴォールト天井に使われていた焼成レンガは不揃いに見える。
ここでは、王様がなくなったので、23人が殉死しました。
その後「大きい墓」の裏側へ。
途中でこんな地下空間が。
皆さんが覗いているものは、
「大きい墓」への入口だった。墓室奥にあった凹みがここに繋がっているらしい。
その後中庭へ。
遺跡の案内人が次に連れて行ったのは、奥の壁の前にあるこの凹み。
ここには壇がありました。アッシュールバニパルが侵略して、中を暴くと動物の骨が出てきました。
中庭に供犠が行われていた壇があったという。
ジッグラトをもう一度眺めて見学終了。5月の半ば過ぎで気温が49度。集中力はすでに限界。
「大きな墓」近くの道路に出ると、バスが来てくれていたので、暑さから逃れようと駆け込んだ。そして遺跡を撮影。
道路の近くには用水路があって、その流れは澄んでいた。
シューシュの町には20分ほどで着いた。
Google Earthより
シヴォール川を渡ると次の橋の向こうにダニエル廟の尖塔が見えた。
取り敢えず昼食。
いつものように、サラダ、ニンニク入りヨーグルト、オリーブの漬物(とレザーさんは言う)、スープ。
さらにドゥーフ(トルコ語ではアイラン少し塩分の入ったヨーグルト飲料。日本では甘いものしかないので、ここぞとばかり飲みまくった)も注文。
豆と羊肉のシチューをライスにかけて。羊肉(レザーさんはマトンと言う)は好物なので、度々出てきてうれしい。
そして驚くのは、全く臭いがないこと。日本でも生ラムがスーパーで売られるようになって、臭いのない羊肉を食すことができるようになった。それを冷凍すると臭いが出てきたので、イランの羊は冷凍していないのだろうと思ったものだ。
食後はまず川向こうのダニエル廟へ。
シュガーローフ状のドームかと思ったら、凹面の石材を細長い円錐形に積み上げているみたい。
聖人廟の内部では、柩に大きなカバーがかかっている。そして大抵の廟がそうであるように、ここでもお参りする部屋は男女別々になっているので、柩も半分ずつしか見えない。
ドームはやっぱり鏡張り。
女性だけなので、冷房の効いた側廊では、横になったり、輪になっておしゃべりしたりしていた。
※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館