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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2017年11月6日月曜日

タフテ・スレイマーン(Tahkt-e Soleyman)1 サーサーン朝とイルハーン朝の遺跡


ゼンダーネ・スレイマンの頂上からタフテ・スレイマンを眺めるのは忘れていたが、
Google Earthより
下の方に降りてから見えた。
『ペルシア建築』は、西北ペルシアの聖なる山の頂上に造営されたタフテ・タクディスがそれである。この聖なる山は、古来、天と地が相接する場所として、またゾロアスターの伝統的な誕生地として、かつまたササン朝世界における最も神聖な祭儀場として知られており、かつてはシーズとかガンザカとか呼ばれたが、今日ではタフテ・スレイマーン、つまり「ソロモンの玉座」と通称されている。しかし、当の建物がタフテ・タクディスとして実在したのはわずか数年間に過ぎなかった。618年にホスロウ2世によって建設され、628年にビザンティン皇帝ヘラクレイオスによって破却されてしまったからであるという。
今でもサーサーン朝時代の周壁に囲まれている。
Google Earthで見ると、南北に長い楕円形で、真ん中に池がある。サーサーン朝の建物遺構も、そのプランがよく分かる形で残っている。
『ペルシア建築』は、ササン朝の建築技術者たちは、印象的なモニュメントによって出来るだけ迅速に自己を顕示せんとするこの新王朝からの急激な要求に、限られた種類の建築材料をもって、突如として応えなければならなかった。このような悪条件にもかかわらず、堂々たる建造物がいくつか実現され、今日もなお見事な遺跡がいくつか残存しているのである。ササン朝建築の特に重要な功績といえば、ドームの積極的利用や、スクインチの上にそれを据える構法、また、仮枠なしで巨大なヴォールトを造る技術や、マッシヴな重量を構造的な体系に分割して荷重を特定の点に集中させる技術、加えて、横断ヴォールトの萌芽的な使用などが挙げられる。これらはすべて後継のイスラム建築において大いに開花するのであるが、他方で、西洋建築の発展史にとっても重要な意味を持っている。オスカー・ロイター氏が指摘した通り「これはゴシック建築において究極的に実現されるところの構造的システムへ向けての試行的な第一歩であった」といえようという。
現地で地面に置かれた平面図を写すと形が変になってしまった。
①池 ②周壁:サーサーン朝 ③南門:サーサーン朝 ④南門:イルハーン朝 ⑤北門:イルハーン朝 ⑥建物遺構:イルハーン朝 ⑦西イーワーン(ホスローのイーワーン):サーサーン朝 ⑧北イーワーン:サーサーン朝 ⑨南イーワーン:イルハーン朝 ⑩八角形の建物:イルハーン朝 ⑪集会所:イルハーン朝 ⑫アザルゴシュナスブ(Azar’goshnasb)拝火神殿-サーサーン朝 ⑬永遠の火安置所:サーサーン朝 ⑭アナーヒーター神殿:サーサーン朝 ⑮列柱室:サーサーン朝 ⑯宗教複合体の周廊:サーサーン朝 ⑰ハマム(浴場):イルハーン朝

タフテ・スレイマンの駐車場から、
②周壁にぽっかりとあいたアーチ形の門が③サーサーン朝時代の南門、その左の方に壁が一部途切れたようなところが④イルハーン朝時代の南門

①サーサーン朝時代の南門は閉じられている。
幅の広い切石の間に細い切石を挟むのが、この門の特徴で、上から3段目には三重のアーチ形の凹みが装飾としてつけられている。
平面図によると、当時はここに水路があったらしい。

現在では②イルハーン朝時代の南門から入る。
道脇を少し流れて、すぐに右へとそれている。

その水はこの溝を通ってきたものだ。
⑨南イーワーンのあった場所から内壁内へ入ると、
遠方に修復中の遺構が聳え、手前に水面が見える。
それは①大きな池。
かつての火口はいつも一定の水位が保たれているという。
そのためにこのように排水口が切り込まれていて、溝が設けられている。

左側には⑥イルハーン朝時代の建物遺構が縦に並んでいる。
南端の建物から見学。ドームやヴォールト天井ではなく、切妻屋根のよう。
小さな石を積みあげて、
表面には漆喰のようなもので仕上げている。付け柱もあって、凹凸だけだが装飾的。
北へ
北へと一直線に並んでいた。
⑥イルハーン朝時代の建物群平面図の中に丸い部屋があるが、それがこの内側で、12角形だったという。
左の隙間から覗くと、⑩イルハーン朝時代の八角形の建物の遺構の上にゼンダーネ・スレイマンが見えていた。
⑦西イーワーン(ホスローのイーワーン):サーサーン朝 ⑧北イーワーン:イルハーン朝 ⑩八角形の建物:イルハーン朝 ⑫アザルゴシュナスブ(Azar’goshnasb)拝火神殿:サーサーン朝 ⑬永遠の火安置所:サーサーン朝 ⑭アナーヒーター神殿:サーサーン朝 ⑮列柱室:サーサーン朝 ⑯宗教複合体の周廊:サーサーン朝 ⑰ハマム(浴場):イルハーン朝 ⑱戴冠式の間:サーサーン朝 ⑲ホスロー2世の宮殿中庭 ⑳ゾロアスター教信者の食堂 ㉑ヴォールト天井の通路 ㉒台所 

その次にあったのは⑦西イーワーン(ホスローのイーワーン)の遺構
この作業中の空間が高さ19mの西イーワーンの中だった。
サーサーン朝のイーワーンは石壁で、イルハーン朝時代にはそれに厚く土また漆喰を塗り、ラージュヴァルディーナのタイルを貼り付けた。その豪華なタイルは剥がされ、多くは持ち去られてしまい、現在はタイルの形が漆喰に残っている。それを特別に見せてもらった。
それについてはこちら
想像図 謁見の間だったとか。

サーサーン朝時代の遺構へ
⑧南イーワーンは失われている。
⑱戴冠式の間を通って、

⑫アザルゴシュナスブ拝火神殿(サーサーン朝)へ。
南北に出入りできる通路がある。床は石板のタイルが敷き詰められているが、一段高くなったところがある。
そして西にはイーワーン。
南の入口を振り返る。4つのイーワーンの上にドームが架かっていたという。

⑬永遠の火安置所(サーサーン朝)へ。
中央に祭壇があった。

⑭アナーヒーター神殿(サーサーン朝)へ。
入ると切石の壁が。
神殿中央は広間状で、その回りを各面3つずつ、
全部で8つの小壁が囲んでいる。四隅には付け柱がある。
おそらく8つのアーチに囲まれた広間。
ビーシャープールにもアナーヒーター神殿があった。アナーヒーター女神は水の神なので、水を神殿内に流し込むように造られていたが、ここはどうだったのかな。
遺跡の説明員(調査員の一人、レザーさんの奥の黒と青の服を着て後ろを向いている人)は、屋根はなく、太陽の光が水面を照らしていたという。
その取水口はここ

次に見学したのは、⑭アナーヒーター神殿の左、⑫アザルゴシュナスブ拝火神殿の北にある大きな空間(勝手に⑲とした)。ここはホスロー2世の宮殿の中庭に、イルハーン朝時代に壁を築いたのだという。

⑤周壁の北門(サーサーン朝)と左手前には⑯宗教複合体のヴォールト天井周廊(サーサーン朝)、そして右手前には修復中で屋根の架かった⑰イルハーン朝時代の浴場。

⑰イルハーン朝時代の浴場へ
奥にハマムがあり、左のヴォールト状のものが竈。

⑤サーサーン朝時代の周壁の北門
門のアーチは修復中で、木枠が取り付けてある。

⑯宗教複合体の周廊へ。
長く続いている(ゼンダーネ・スレイマンも入れようとしたら、周廊の入口が切れてしまった)
その中を通って行く。
この辺りの側壁は粗い大きな石が使われている。
ところどころに開口部や壁龕があるのは、近衛兵が立つ場所だった。
途中で左に折れ、南に向かっていると先が通行止め。先に⑦西イーワーンの高い遺構とその北側にあるヴォールト天井の通路が見えている。
左の低いヴォールト天井の通路に入って、
やがて出てきたところは、⑳ゾロアスター教信者(巡礼者)たちの食堂
左手の㉑ヴォールト天井の通路に入る。
左(北)側には㉒台所
そして南側には、巨大な円柱が二列に並ぶ⑮サーサーン朝時代の列柱室。
ここで王達が食事をしたのだという。それにしても太い円柱の並ぶ部屋である。
部屋の広さに対して円柱が太すぎる。まるでルクソールのカルナック神殿の大列柱室のよう。
東側に⑫アザルゴシュナスブ拝火神殿外壁、南に⑱戴冠式の間の壁
南面の続きに⑦西イーワーン(サーサーン朝)の復元現場。
⑦西イーワーンと付属するヴォールト天井の北通路(南北に1本ずつある)
サーサーン朝時代のヴォールト天井通路に、イルハーン朝時代に⑩八角形の建物を付け足した。

サーサーン朝の遺構東部分を振り返る。

2つの⑩八角形の建物(イルハーン朝時代)を回り込むと、⑦西イーワーンの南通路のヴォールト天井が見えてくる。
そして前方には⑥イルハーン朝時代の建物群が南北に続いている。

最後に⑪集会所(イルハーン朝)へ。そこは出土品の博物館となっていた。
収蔵品については次回

    ゼンダーネ・スレイマン←    →タフテ・スレイマーン2 博物館

関連項目
タフテ・スレイマーンのタイル
ビーシャープール1 アナーヒーター神殿
タフテ・スレイマーンで見た花


※参考文献
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会