南階上廊、東の中支柱にもヴォールト天井の隙間がある。
⑲その隙間には、北側同様に透彫の高い障壁があるので、ぎりぎりまで近づいて見上げないと、聖母子像は見えないのだった。
そこから見えた聖母子像。
『天使が描いた』は、867年3月29日、コンスタンティノープルの総主教フォーティオスは、ハギア・ソフィア大聖堂のイコノクラスム終結後最初に復興されたイコンのまえで説教を行った。
「聖母は、全人類の救済のために生まれた造物主をその無垢な両手に抱く」
このときフォーティオスが言及しているのが、この聖母子のモザイクであると考えられているという。
イコノクラスムが終結したのが843年なので、それから24年以内に造られたのがこの聖母子像ということになる。
聖母の左腕付近がフレスコによる修復で、ぼやけて写ってしまうのだが、二人の顔もいつもぼんやりとしか写らないのは、ひょっとしてフレスコ?
キリストの光背の十字架部分は銀ではなく白いテッセラらしい。
キリストの着衣は金色で、茶色の衣文線や陰影はどこからでもはっきりと見えたが、銀色で表されているのは衣装の文様か照り隈らしいことがやっとわかった。
それにしても聖母の左手の細長い指には、爪まで表されている。
このモザイク画は細かいところまで精密に描写され、イコノクラスムが開始した730年から100年以上の空白期間があるとは思えない素晴らしさだ。
横断アーチの下の方には大天使ミカエルの翼の端と足先がわずかに残っていた。
窓付近のモザイクは、オリジナルのままかと思っていたが、横断アーチと後陣のモザイクが一続きに造られている(同書より)とすると、ここもイコノクラスム終結直後に造られたことになる。
⑳デイシスは人の身長よりも高い位置につくられている。
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、今日大半の研究者はこのパネルを13世紀後半の制作と考える。つまり、ラテン人の手から首都を奪回し、ビザンティン帝国復興がかなったことを記念して、ミハイル8世が描かせた、とするものである。
「デイシス」とはギリシア語で「祈り、嘆願」を意味する。キリストを中央に配し、その左右に聖母と洗礼mのヨハネが控える。最後の審判に際して、人類を天国と地獄に選別するキリストに対して、一人でも多くを救ってくれるようにマリアとヨハネが執りなしをする場面という。
ヨハネの黒っぽい衣はボロ布のようだが、レンズをズームしていくと、緑色なども使われ、かなり細かく表現されている。
益田朋幸氏のイスタンブール ― アヤソフィア美術館とビザンティンの聖堂 ―というサイトでは、衣のあたりを見ますと、テッセラの形がありますのでモザイクであるということが分かるのですが、顔を見ますと、かなり近寄って見てもガラスのかけらの形が分かりません。これは数ミリの小さなガラスを実にていねいに並べたものです。筆で描く絵でしたら、影を描いたり肉付けをするためには、色を混ぜたりぼかしたりすれば簡単ですけれども、ガラスのモザイクでやるときには、1色1色ガラスを焼くときに成分を変えるのです。
ガラスの色は、工房によって一種の秘伝があったのだろうと思います。これだけ自然にぼかしが出来るということは、何十色という少しずつ色合いが違うガラスを焼き分けて、それを細かくていねいに埋めることによって、ほとんど筆で描いたような効果をあげているのですという。
その金地は何かの葉を象ったような形を互い違いに上に積み重ねてある。
キリストの坐る椅子の一部らしきモザイク片が残っている。
制作当初はこんなだったという小さな予想復元図がある。
このモザイク画の横の窓から、アヤソフィアのに附属する洗礼堂かスルタンの墓廟、そして遠くにスルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク)のミナレットが見えた。
この窓から光が差し込む頃に見ると金地が映えるらしい。
南階上廊にはイコノクラスム期や終結直後のモザイク壁画があるはずだが、一般には開放されていないらしく、残念ながら見ることが出来なかった。
※参考サイト
益田朋幸氏のイスタンブール ― アヤソフィア美術館とビザンティンの聖堂 ―
※参考文献
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」(1993年 講談社)
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」(1997年 小学館)
「ビザンティン美術への旅」(赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社)