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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2007年11月3日土曜日

弥勒菩薩半跏思惟像といえば広隆寺と中宮寺


広隆寺に2体の古い弥勒菩薩半跏思惟像があることよりも、広隆寺の弥勒菩薩半跏像(以下宝冠弥勒像)といえば、法隆寺に近い中宮寺の弥勒菩薩半跏像と比べられたり、ソウルの韓国国立博物館蔵の弥勒菩薩半跏像との類似点が指摘されることの方が一般的であるために、宝髻弥勒像は記憶から抜け落ちてしまったのだろう。

弥勒菩薩半跏像 金銅(銅に金メッキ) 三国新羅時代(527-676) ソウル、韓国国立博物館蔵
『図説韓国の歴史』に、蝋型の鋳造品で、頭部の宝冠は三山に単純化されているが、韓国最大、秀作の金銅仏像である。京都、広隆寺木造半跏思惟像と酷似するという。

宝冠弥勒像と比べると三山の形がはっきりしている。中宮寺蔵弥勒菩薩半跏像 133㎝ 寄木造(クスノキ) 飛鳥後期
『太陽仏像仏画1奈良』によると、樟材数個を不規則に寄せた、独特の寄木造りの像である。丸味のある柔らかいポーズは止利様の像とは大きくへだたり、時代も飛鳥末期の作と思われるという。

平安後期から始まったと思っていた寄木造という造り方がすでにあったことに驚くが、『日本の美術455飛鳥白鳳の仏像』も、飛鳥後期の弥勒菩薩像を代表するのは中宮寺像である。中宮寺の弥勒菩薩像(寺伝では如意輪観音)は、同じ半跏思惟像でも渡来様式が顕著な広隆寺像と比べると、際立って日本的洗練が加えられているさまが実感させられる。それはこの像がそれまで類例のない寄木造の新技法で制作されたことに起因すると考えられる。飛鳥後期の中宮寺像は、画期的な新技法の開発により、一木彫刻の制約から解放され、一段と優美で写実的な造形を達成したのであるという。
寄木造であるからこその造形であると説明されている。広隆寺弥勒菩薩半跏像 一木造(アカマツ) 飛鳥前期
『日本の美術455飛鳥白鳳の仏像』は、


救世観音像とほぼ同時期の宝冠弥勒像は、日本では他に例がない赤松を用いた一木彫刻であり、また表現が朝鮮三国時代の金銅仏そのままであることから、これは飛鳥彫刻における渡来様式の典型的造像とされる。宝冠弥勒像は垂飾にした腰帯の部分などには樟材が使用されているから、制作地が日本であることは間違いない。  ・・略・・  朝鮮三国の新羅様式からの直接の影響を受けた造像であることが分かる。したがって、太子薨去の翌年の推古31年7月に新羅から推古天皇に献納された像に相当すると考えられる。新羅による献納仏であるから新羅系仏師が制作に当たったはずであり  ・・略・・という。

従来の請来説を否定している。このように見ていると、右脚から下に垂れる衣の重なり方、衣文線はそれぞれに工夫が見られるが、どれも立ち上がると妙な服になるのではないかと思うような不思議な凝り方だ。特に宝冠弥勒像の右膝下の出っ張りなどは、よくわからずに元の仏像をまねたために不自然さが際立ってしまったような気がする。
しかし、私が飛鳥白鳳の仏像が好きなのは、実はこのような造形であるからこそでもある。

※参考文献
「カラー版日本仏像史」(水野敬三郎監修 2001年 美術出版社)
「太陽仏像仏画シリーズⅡ奈良」(1978年 平凡社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「日本の美術455飛鳥白鳳の仏像」(松浦正昭 2004年 至文堂)