お知らせ
イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2007年10月31日水曜日
広隆寺には国宝の弥勒菩薩半跏像が2つ
太秦広隆寺は、同寺の栞によると、
推古天皇11年(603)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本7大寺の1つである。この寺の名称は、古くは蜂岡寺、秦公寺、太秦寺などと言われたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている
ということだ。昔々、まだ仏像にそれほど興味のない頃に行った。 かすかな記憶では、暗い宝物館で仏像を右に見ながら歩いていった。だから、国宝第一号(同寺の栞による)の弥勒菩薩半跏像は左半分がまず見えた。ということはこの写真に近い角度から見たのだと思う。高校の先生から、修学旅行生が指に触れてみたところポロッととれてしまった(この事件については、Wikipediaに詳述してあります)と聞いたのと国宝であるとが、当時のこの仏像の知識全てだったように思う。
同寺の栞によると、
広隆寺の成立に就いて、日本書紀によると秦河勝が聖徳太子から仏像を賜りそれを御本尊として建立したとあり、その御本尊が現存する弥勒菩薩であることが廣隆寺資材交替実録帳を見ると明らかである
ということだ。『カラー版日本仏像史』では、
本像をどれに当てるべきかなお決定しがたい状況にある。しかし宝冠弥勒の場合、材質(赤松)や様式から朝鮮三国時代の特に新羅との関係の濃さが指摘され、それが請来像であった蓋然性は高い
としている。頭部のものは頭髪のまげではなく、宝冠なのだ。 今回久しぶりに行くと、霊宝殿という立派な建物があって、広々とした空間の周囲に壇が巡っていて、その上に仏像が並んでいた。かなり進んでやっと弥勒菩薩半跏像が見えた。今回は仏像を左に見ながら歩いたので、弥勒菩薩半跏思惟像は右腕がまず見えた。正面から見ようと思うと、その前にも壇が作ってあって(つまりT字状になっている)、遠くに下がって眺めることになり、じっくり見るなどということはできなかった。「昔はもっと近くで見えたのに」と一緒に行った友人も言っていた。次回は双眼鏡を持って行こう。
そしてこの弥勒菩薩半跏像の隣に小さな弥勒菩薩半跏像があり、その像もまた国宝のようだった。「こんな像、昔はなかったよね」と言ったものの、帰って古い本を開くと、国宝として紹介されていたので、当時は見落としていたことがわかった。
同寺の栞には、泣き弥勒とも書いてある。『美術ガイド京都』では、
像高90㎝のやはり一木造漆箔のさらに小像である。肉づけには自然らしさが加わり、衣文の表現に装飾的な要素が多くなっている点、制作時期はやや降るとされる。この像の特徴は顔によく示され、唇と目が大きい。ことに切れ長の目は両端が丸くなっていて、涙を浮かべたようにうるんでみえる。このため泣き弥勒という俗称をもつという。『太陽仏像仏画シリーズⅡ京都』には「宝髻弥勒」という言い方もしていて、
2躯の半跏思惟像のうち小型(66.3㎝)の方で、高髻に結い、童顔、宝冠弥勒にみるような繊細さはみられず、耳朶は剛直で、口と手指の長いのが目立つ。両者の造形感覚は基本的に異なっている。推古天皇31年(623)に新羅国が献上した仏像を広隆寺に賜っているが、あるいは本像がそれに当たるものかも知れないという。 飛鳥白鳳の仏像が一番好きと言っている私だが、この仏像を知らなかったとは。今度はじっくりと見てみよう。
※参考文献
「カラー版日本仏像史」(水野敬三郎監修 2001年 美術出版社)
「美術ガイド京都」(白畑よし監修 1978年 美術出版社)
「太陽仏像仏画シリーズⅡ京都」(1978年 平凡社)