太秦広隆寺は、同寺の栞によると、
推古天皇11年(603)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本7大寺の1つである。この寺の名称は、古くは蜂岡寺、秦公寺、太秦寺などと言われたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている
ということだ。昔々、まだ仏像にそれほど興味のない頃に行った。

同寺の栞によると、
広隆寺の成立に就いて、日本書紀によると秦河勝が聖徳太子から仏像を賜りそれを御本尊として建立したとあり、その御本尊が現存する弥勒菩薩であることが廣隆寺資材交替実録帳を見ると明らかである
ということだ。『カラー版日本仏像史』では、
本像をどれに当てるべきかなお決定しがたい状況にある。しかし宝冠弥勒の場合、材質(赤松)や様式から朝鮮三国時代の特に新羅との関係の濃さが指摘され、それが請来像であった蓋然性は高い
としている。頭部のものは頭髪のまげではなく、宝冠なのだ。

そしてこの弥勒菩薩半跏像の隣に小さな弥勒菩薩半跏像があり、その像もまた国宝のようだった。「こんな像、昔はなかったよね」と言ったものの、帰って古い本を開くと、国宝として紹介されていたので、当時は見落としていたことがわかった。
同寺の栞には、泣き弥勒とも書いてある。『美術ガイド京都』では、
像高90㎝のやはり一木造漆箔のさらに小像である。肉づけには自然らしさが加わり、衣文の表現に装飾的な要素が多くなっている点、制作時期はやや降るとされる。この像の特徴は顔によく示され、唇と目が大きい。ことに切れ長の目は両端が丸くなっていて、涙を浮かべたようにうるんでみえる。このため泣き弥勒という俗称をもつという。

2躯の半跏思惟像のうち小型(66.3㎝)の方で、高髻に結い、童顔、宝冠弥勒にみるような繊細さはみられず、耳朶は剛直で、口と手指の長いのが目立つ。両者の造形感覚は基本的に異なっている。推古天皇31年(623)に新羅国が献上した仏像を広隆寺に賜っているが、あるいは本像がそれに当たるものかも知れないという。

※参考文献
「カラー版日本仏像史」(水野敬三郎監修 2001年 美術出版社)
「美術ガイド京都」(白畑よし監修 1978年 美術出版社)
「太陽仏像仏画シリーズⅡ京都」(1978年 平凡社)