お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年7月10日木曜日

6日目-2 大邱博物館の考古室に達城古墳群の出土物

最初に入ったのは考古室だった。大邱だけでなく、昨日行った高霊池山洞古墳群他、大邱周辺の古墳の発掘状況や出土物などが紹介されていて、この限られた地方に、形は円形でも、構造が様々な古墳が造られていたことがわかった。 昨日行った達城の周辺にも古墳群があったようだ。名称はそのまま達城古墳群。
『大邱博物館図録』は、臥龍山の麓から達城公園のほうへ続く丘陵上には三国時代の墳墓が数十~数百基分布していた。このうち7基についての調査が1923年に日本人によってなされ、古墳の構造が明らかになった。
調査された古墳は底径が20mほどの円形封土で、内部には石槨が1基ないし2基あった。石槨は大部分川原石や板石などを積み上げて築いた。墳墓の形態(埋葬の主体部)は竪穴式が多いが、37・55号墳のように三壁のみ作り、一短壁を開閉する横口式もある
という。

金銅装飾大刀 長さ67㎝ 
細かい雲文のようなものがびっしりと付けられている。
下は魚の尾ビレみたいで、上は2本の大刀の鞘で面白い のこぎりがあったのに驚いた。三国時代といえば668年までである。
今の薬師寺の建立が奈良時代(8世紀初)らしいけど、まだ鋸は使われてないらしいで 出字形金銅冠が出土した。右の方には鹿の角状のものもある。どちらにも歩揺がついている。金銅冠 慶北義城郡塔里の金城山山麓、義城塔里遺跡出土 
大型の封土墳に5つの石槨がつくられていた。金銅冠は鋏で両側を切り、糸のように捩った鳥羽状装飾を立てており、新羅の金(銅)冠の出字形とはことなる。古墳の構造や出土遺物が慶州の積石木槨墓と類似する点からみてこの古墳の主人公は新羅化した地方土着勢力と考えられるという。
これだけの数を1本1本ぐりぐりとねじっていくのは大変やろなあと思うくらい硬そうな銅板だった。大邱慶北地方では馬具も出土している。大邱慶北地方から出土した輪鐙には滑り止めのような小突起が5つずつ付いている。杏葉は剣菱形ではないなあ。考古室と美術室を見終わったくらいから、おっちゃんの様子がおかしくなってきた。廊下のソファに座り込んでしまった。
しばらく坐ってるから、いろいろ見てきて 民俗室で実物大に再現された儒教の生活の様子などを見た。博物館の人が向こうにもありますよと教えてくれたが、あまり遠くには行けない。
もどると、おっちゃんはまだ坐っているという。下の階にミュージアムショップがあった。そこで慶州博物館図録を見つけた。慶州博物館では本を見る時間がなかったので、大邱博物館にあってラッキーだった。そして国立大邱博物館の図録と、国立中央博物館の『韓国文化遺産の瑰宝』という中国語版も買った。中国では簡体の本はわかりにくいと躊躇するのだが、ハングル文字ばかり見ていたので、漢字をみて思わず買ってしまった。 戻るとおっちゃんはクーラーから水をくんで飲んでいた。
だいぶ良くなったからホテルに帰る
広い通りなのでタクシーはいくらでも通っている。反対車線を通っていたタクシーに手を挙げるとUターンしてやってきた。
グランドホテル
走り始めて運転手が聞いてきた。
イルボン?
イルボン!
訛りでわかるんやろか。途中で中の道に入った。静かな住宅街の向こうに高層マンションが建築中である。 ホテルのある大通りにはロッテが建てている高層マンションがあった。どの街に行っても高層マンションの建築ラッシュを見る。

※参考文献
「国立大邱博物館図録」(2002年 通川文化社)