
『大邱博物館図録』は、臥龍山の麓から達城公園のほうへ続く丘陵上には三国時代の墳墓が数十~数百基分布していた。このうち7基についての調査が1923年に日本人によってなされ、古墳の構造が明らかになった。
調査された古墳は底径が20mほどの円形封土で、内部には石槨が1基ないし2基あった。石槨は大部分川原石や板石などを積み上げて築いた。墳墓の形態(埋葬の主体部)は竪穴式が多いが、37・55号墳のように三壁のみ作り、一短壁を開閉する横口式もあるという。
金銅装飾大刀 長さ67㎝
細かい雲文のようなものがびっしりと付けられている。
下は魚の尾ビレみたいで、上は2本の大刀の鞘で面白い

今の薬師寺の建立が奈良時代(8世紀初)らしいけど、まだ鋸は使われてないらしいで


大型の封土墳に5つの石槨がつくられていた。金銅冠は鋏で両側を切り、糸のように捩った鳥羽状装飾を立てており、新羅の金(銅)冠の出字形とはことなる。古墳の構造や出土遺物が慶州の積石木槨墓と類似する点からみてこの古墳の主人公は新羅化した地方土着勢力と考えられるという。
これだけの数を1本1本ぐりぐりとねじっていくのは大変やろなあと思うくらい硬そうな銅板だった。


しばらく坐ってるから、いろいろ見てきて

もどると、おっちゃんはまだ坐っているという。


だいぶ良くなったからホテルに帰る
広い通りなのでタクシーはいくらでも通っている。反対車線を通っていたタクシーに手を挙げるとUターンしてやってきた。
グランドホテル
走り始めて運転手が聞いてきた。
イルボン?
イルボン!
訛りでわかるんやろか。途中で中の道に入った。静かな住宅街の向こうに高層マンションが建築中である。

※参考文献
「国立大邱博物館図録」(2002年 通川文化社)