お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年1月15日土曜日

5-4 パンテオン(Pantheon)の柱廊は修復中

やっと辿り着いたパンテオンは柱廊半分が修復中だった。
『ROMA』は、パンテオンは古代ローマ時代の遺跡だが、609年にキリスト教会になったため、保存状態が良い。紀元前27年にアグリッパが創建し、ハドリアヌス帝が全面的に再建して今のような独創的な形になったが(118-125年)、古い碑文は残されたという。
アーキトレーブ(梁)に巨大な文字でその碑文がある。
長方形の広場をしめくくるように建てられていた低い柱廊が後ろの円堂を隠している。もともとのファサードはもう一段上にあり、ティンパヌムは鷲の模様のある青銅のレリーフで飾られていた。巨大なプロナオス(前室)は、高さ13mの御影石による一石の円柱16本で飾られているという。
16本の円柱のうち、8本は正面に並んでいる。
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、ハドリアヌス帝の神殿は真北を向き、円堂部、前廊部、両者の形の平面をもち、神室のつなぎ部の3つから成り立っている。円堂部は外径55.8mの円形平面をもち、その上にドーム屋根が架かる。前廊部は34.07mの正面に8本のコリント式円柱が並び、その上に三角のペディメント(破風)が載るギリシア神殿形式である。
前廊部の奥行きは15.5mで、円形神室の直径の約三分の一を占めるほど深く、エトルリア時代のローマの神殿の伝統で、その後のローマ神殿に継承された特徴であるという。
残りの8本は列柱の内側に4本ずつ2列配置されている。そして、入口左右の壁龕に2本ずつ四角い付け柱があるので、横から見ると4本の柱があるように見える。
平面図の円や四角のところには黒い石が嵌め込まれていた。その一つ一つが巨大だった。
パンテオンの配置および平面における一つの特徴は、中心軸と正面観の強調である。パンテオンの前面には、幅60m、奥行きが幅の約2倍の長さの「コの字」形回廊で囲まれた前庭が造られていた。中心軸上に前庭への入口、前庭中央の記念門、神殿が置かれることにより中心軸が強調されている。
また神殿の正面性の強調は古くはエトルリア神殿にまでさかのぼるものであるという。
三角のペディメントはギリシア風なので、この古代ローマを代表する建築物は、ギリシア風とエトルリア風の折衷型だったようだ。
不思議なことに、円筒の後ろ(南)側にあった出っ張りはここにも平面図にも描かれていない。グーグルアースで見るとプロナオスよりも大きいのに。ずっと後世に付け加えられたものだろうか。
では前廊部へ。
右内側の2本の円柱は前面の円柱と入口脇の壁の四角い付け柱の4本でアーキトレーブ(各柱の中央までの石材)3つを支えている。その上に角柱が載り、角柱のそれぞれは木の梁を支えている。
左右の柱間の梁と中央の柱間の梁は屋根の勾配によって高さが異なっているので、内側の角柱の途中に貫のように通っているのではないかと思う。せっかくなので確認すれば良かった。
中央の柱間のみがほかの柱間より1ローマ尺広く、入口にはヴォールト天井が架かるという。
中央の柱間は10m以上の広さだが、その半分しか見られずに残念。
また、角柱と角柱の間にアーチが付けられている。柱とアーキトレーブが一体化しているようにも見える。ギリシアの神殿の屋根もこのような仕組みで屋根がかけられていたのだろうか。
巨大な切り妻屋根は緻密に組まれた木材で支えられている。日本風に言えば、屋根の垂木がそのまま見える化粧屋根裏だが、ここでは垂木1本1本の間に見える瓦の色が一つ一つ異なっている。それとも瓦ではなく切石?これはグーグルアースでもわからない。
当初は漆喰などを塗ってフレスコ画などが描かれていたのだろうか。
確かに入口にはヴォールト天井が架かっている。
円堂内の正面中央の壁龕のみがほかの6つの壁龕より若干幅広く、この正面壁龕の両脇の破風のみが三角形なのに対し、そのほかの破風はすべて櫛形にそろえられ中心軸が強調されているという。
正面壁龕の両側、前に円柱の並んだ照明されている空間が、6つの壁龕の内の2つです。
正面にはベンチが並んでいて坐っている人達がいた。
その正面壁龕の半円ドームには十字架が表されている。今でもキリスト教の信仰の場となっている。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)

「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)