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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年4月7日木曜日

7 サッルスティオの家(Casa di Sallustio)に第1様式の壁画

話は前後するが、悲劇詩人の家⑲(Casa del Poeta Tragico)の番犬の舗床モザイクを見学した後は、テルメ通(Via delle Terme)をもう1区画(インスラ)西へ進んで右折、エルコラーノ門(Porta di Ercolano)へと向かった。
⑳パンサの家(Casa di Pansa)はテルメ通(Via delle Terme)沿いには壁面しかなく、その前を通り過ぎて右へ。
曲がり角には深い轍が複数刻まれている。
少し行ったところにパン屋があって、石臼と石窯が残っていた。
四角い穴に棒を差し込んで回して小麦粉を引いていました。ポンペイに幾つかあるパン屋の窯の中には炭化したパンが数十個見つかlりました
その向かい側にまた共同水道があった。この浮彫は2人の人物を大きな鳥が翼を広げて守っているような不思議なものだった。
ここで左側のコンソラーレ通(Via Consolare、執政官通)を北へ。皆が見ているのは酒屋。
道は狭くなる。もっと狭いメルキュリオ通(Vicolo di Mercurio)を越えると、また酒屋。
当時のワインはアルコール度数が高いだけであまり美味しくありませんでした。ボウル型の凹みにワインを入れ、水で薄めたり、蜂蜜や香草で味付けして売っていました
次に見えてきたのは高い鉄格子で囲った家屋。通りがかりに第1様式の壁画が見えた。㉒サッルスティオの家だった。扉が開いていたので、ちょっと入ってみたかった。
歩いた通りに面して鉄格子開いている建物はほとんどなかったが、現地でもらったイタリア語の音声ガイド用遺跡地図によると、見学できる邸宅はたくさんあるようだった。
この時は、本来の入口ではなく、壁のなくなった部屋から入るようになっていると思っていたが、平面図を見ると西向きのD玄関ホール(矢印)が開いていたのだった。
『完全復元2000年前の古代都市ポンペイ』は、発掘当時は、第1様式の格調高い装飾と居住空間の広さで大きな話題になった。増改築が行われる前の最も古い家は前2世紀前半に建てられたという。
隙間から壁面を撮ったらちょっとピンボケになってしまった。壁面を区切って着色しているだけで、文様も絵画もなくシンプルなのが第1様式だ。
奥には列柱と葡萄棚のようなものが見える。KポルティコとM庭園だ。
続きの部屋は同じように鉄格子があって、また居酒屋のカウンターがあった。
通りに面したファサードには店が6軒も並び、その間に家の玄関があったという。
さっき見た居酒屋もこの店も、サルスッティオの家屋の一部だったのだ。
鉄格子のある3つの開口部とその向こうの3つの店舗、左手背後にある2店舗が全部サルスッティオの邸宅だったようだ。
この分岐の共同水道には浮彫がなかった。執政官通は左側で、もうエルコラーノ門が見えている。
※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)