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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年4月26日火曜日

10 秘儀荘(Villa dei Misteri)に第2様式の壁画

南の二列になった大柱廊から西の柱廊に出て、狭い通路(4と6の間)へ。
前を通る人のおかげで暗かったが、壁が赤紫色だったのはわかった。下の平面図は西が下になっています。
明るい場所に出たと思ったら、8トスカーナ風アトリウムだった。四方が片流れ屋根になっていて、雨水だめの上部は屋根がなく、そこから光が入って明るかった。

写真は通路からアトリウムに入ってきた人。通路には中央パネルに赤紫、周囲に黄色、等間隔に緑の縦帯、その上に白っぽい横帯が見えている。
アトリウムの狭い壁面には菱形がある。こういう幾何学的な壁面装飾は第1様式かと思ったら、『ポンペイ今日と2000年前の姿』は、家の一階に描かれた装飾画はすべて第2様式のものです(7応接間の壁画だけは第3様式のもの)という。

右側の狭い出入口から見えているのはC休憩室の南壁で、石積みやアーチ列などが描かれている。
『完全復元ポンペイ』は、第2様式は「(遠近法的)建築様式」とよばれ、スッラの統治時代(前80-前25)に流行したようだ。スタッコの浮彫ではなく平面に絵をえがき、遠近法を用いて奥行き感を出すところに特徴がある。通常は、手前の方に背の高い基壇、その上に平面の中央をくぎる2本か4本の円柱、アーキトレーヴ、アーチ、格天井が描かれた。
様式の発展にともない、最初の段階では、中央にとびらがえがかれるようになったという。
2つの開口部の間の壁面には大きく菱形が表されている。その上の白っぽい卍繋ぎの帯との間の黄色っぽい帯には卵鏃文様が立体感をもって表されていた。
別の壁ではっきりと第2様式がわかる。
中央の黒い菱形の周囲の三角形は対角同士が同じ装飾となっている。黄色っぽい方は大理石の模様が丁寧に表されているが、赤い方も別の大理石の模様が表されていたのだろう。
その上の卍繋ぎの帯装飾は立体的に表現されていたのだが、写真にはそれが撮れていないのが残念。
列柱廊の正面奥には、アトリウムへつづく観音開きの出入り口があった。そのうち2つは石膏鋳型法によって復元され、保存されているという。 
そう言えば扉は木製だったためか、全く見かけなかった。広くない開口部に観音開きの扉をつけると、通りにくかったのでは。
扉の両側の壁は、緑の帯の上方にも何かが描かれていた痕跡がある。縁飾りの文様帯がかろうじて残っている。
アトリウムの向こうにはペリスティリウム(列柱廊)になっていて、平面図からこの邸宅で最も広い面積を占めているのがわかる。作業中らしく、防水シートが掛かっていた。
アトリウムの雨水だめには何の装飾も残っていない。こんなに立派な家なので、ファウノの家のように、それなりの装飾があったはず。
ファウノの家の雨水だめはこちら
また狭い通路(Cと7の間)を通って柱廊へ。
柱廊に出ると右向こうに北テラスの庭園が見えた。
この辺りの床は面白い装飾があった。いろんな色の石がいろんな大きさで置かれ、その間を更に小さな白い割石が隙間なく埋め込まれている。
適当に並べてあるようだが、手間はかかりそうな舗床モザイクだ。
縁には黒いテッセラを8個ずつ、その両側には白いテッセラを3つずつ並べた帯がある。 その手前には色石の舗床モザイクがあり、向こうには白石ばかりが並んでいる。
水たまりを越えて外へ。

※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)