8アトリウムから狭い通路を抜けて柱廊へ。右側の開口部から水の溜まっている外に出たのだが、当時でいうと邸宅の居間に入ったことになる。
そしてもう一つの柱廊へ入っていく。先ほどの柱廊とおなじ舗床モザイクがあった。
入ったのは6の部屋。
足元は柱廊の小さな石を組み合わせたモザイクから、白石と黒石の斜めに置かれた石畳文様になった。
部屋には三方の壁の前にガラスの結界があるので、間近で見られるのではと思ったが、入口から眺めるにとどまった。
部屋の中は、日本では一般的なタイルのはり方だ。目地があって同じ形のものが等間隔に並んでいる。そんな風に見えるが、黒い線は目地ではなく、黒石を細く成形して白石の輪郭に並べたものだ。
こういうのもオプス・セクティレだろうか。
さっき市場で壁画を見た時、今は色が褪せてパステルカラーのようになっていますが、元はもっと鮮やかな色だったと言いましたよね。その当時の色が残っているのがこの部屋ですという。
これが「ポンペイの赤」だ。ポンペイ展は各地で何度も開催されていて、10年ほど前に大阪で開催された時にこの複製を見たことがある。今回実物を見て、その時に見た記憶よりも小さいなと感じた。
あまりにも赤の印象が強いので、天井の高い大広間の壁一面を飾っていたと思い込んでいたのだろう。
北壁。左端に出入口があり、横向きの婦人から絵は始まる。
ディオニュソスの秘儀の場面が描かれていますというが、部屋の奥にまで差してきた西日が壁画を照らして見にくい。
東壁へつづく。こんな風に(左下)直射日光が当たっても褪色しないらしい。
人物像の上には天井の際には、アトリウムにもあった卍繋ぎ文が巡っているが、より精密に、立体的に表されている。そのうえには複雑な大理石の板に似せて描かれている。
これで東壁が終わり南壁に続くが、続きの場面はピントがあっていなかった。
南壁の中央に窓があり、右隅から西壁にかけて場面は続いている。この図が一番色があせている。
『ポンペイ今日と2000年前の姿』は、高さ3m、長さ17mの装飾帯というので、それほど広い部屋ではない。21㎡くらいだろうか。部屋全面に大きく人物を表しているが、これも第2様式だ。
『完全復元ポンペイ』は、1882年、アウグスト・マウは『ポンペイにおける装飾壁画の歴史』のなかで、ポンペイの壁画を分類するという史上初の試みをなしとげた。地道な調査にもとづく研究の結果、79年までにえがかれたローマのフレスコ壁画を識別し、4つの装飾系統に分類したのである。
第2様式は、「(遠近法的)建築様式」とよばれ、スタッコの浮き彫りではなく平面に絵をえがき、遠近法を用いて奥行き感を出すところに特徴がある。通常は、手前の方に高い基壇、その上に壁面の中央をくぎる2本か4本の円柱、アーキトレーヴ、アーチ、格天井がえがかれたという。
この赤い部屋には所々黒い仕切りのようなものがあるが、円柱を表したものでもない。ちょっと不思議な第2様式に思われる。
※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)