お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年6月21日火曜日

18 フォロには二階建ての柱廊

共同水道のある四つ角からQ:アポンダンツァ通(Via del’Abbondanza)を西へ歩くと、車道には馬車止めがあって、そこからO:フォロ(市民広場)へは歩くしかなかった。
『ポンペイの遺産』は、人でにぎわうフォルムへ馬車の進入を禁止し、すでに歩行者天国を実施していたのである。
ここでの乗り物といえば、人が担いだ台座の上に乗る「輿」であった。有力者や富裕層の乗り物であるこの輿は、日本でいえば自家用の籠のようなものという。
アポンダンツァ通についてはこちら
『完全復元ポンペイ』は、市民広場は機能的で統一のとれた一大建築物である。だれもが利用しやすい場所にあり、豊かな文化、強い経済力、明るい未来を誇示するための、あらゆる要素が組みこまれていた。
市民広場はかつて、三方をポルティコに囲まれていたという。
アボンダンツァ通りを右手に長い壁を見ながら歩いていたが、それは E:エウマキアの建物だった。東端に半円の後陣のような壁龕がある。列柱が壁龕の幅で西側まで続いていたら、初期のバシリカ式キリスト教会の平面になる。
そのように平面図を見ていると、フォロの南に並ぶA・Cは半円ではないが、Dと東側のTLには半円の後陣状の壁龕がある。
フォロの北側にはTG:ユピテル神殿があったらしいが、今では赤いレンガの基礎が残るだけだ。
同書は、アウグストゥス帝(前27-後24)の時代になると、東から市民広場へとつづいていた2本の通りが行き止まりになった。広大な長方形の広場には、栄誉をたたえる騎馬像の台座がところせましと並び、西側中央には候補者が選挙演説をするための演壇があったという。
神殿の前にも台座が残っているように見えるが、俯瞰写真で見るとだいぶ離れている。
当時はこのように存在感のある神殿で、白く輝いていたらしい。その両側には凱旋門のような門があり、この3つが広場の幅となっている。広場の東西にのびる列柱廊は二階建て。
同書は、前2世紀から凝灰岩の厚板が敷きつめられていた広大な広場は、地震後にトラバーチンで舗装しなおされたが、工事のさなかに火山の噴火がおこり、未完に終わっているという。
街は創造復元でもヴェスヴィオ山は現在の山容になっている。当時は3000m級の山だったはず。
広場の西側には二階建ての白い列柱が少しだけ残っている。
『完全復元ポンペイ』は、西側の列柱は、凝灰岩から白色のトラバーチンにとりかえられていた。西側には今も上下2層のポルティコの一部が残っているが、上段はイオニア式で、ポルティコの端にある階段から2階に上がれるようになっていたという。
西側に続くトラバーチンの二階建て列柱。上下の列柱の間にある石の帯は、エンタブラチュアと呼ばれているもので、更に下側はアーキトレーヴ、上の軒のように出っ張っている部分をコーニスと呼ぶ。大抵はこの間にフリーズと呼ばれる面があって、浮彫が並んでいたり、トリグリフ(3本の縦溝のあるもの)と浮彫のあるメトープが交互に並んでいたりするが、想像復元図にもそれはない。
南側の小さな建物の後陣は残念ながらここからは見えなかった。
『完全復元ポンペイ』は、前2世紀に建てられた灰色凝灰岩の列柱のうち、東側のアボンダンツァ通りまでの部分と、南側の列はいまも目にすることができる。ドーリス式の列柱を上下2層に並べ、トリグリュフォスと平らなメトープをあしらったデザインであるという。
そう言われると台座やアーチ門の向こうに黒っぽい列柱が残っている。その上には薄いアーキトレーヴ、フリーズ、コーニスとエンタブラチュア(目で見て分かり易い訳語はないのだろうか)の要素が揃っている。フリーズにはかろうじてトリグリフがわかるがメトープの浮彫は全くわからない。これ以上近づけなかったのが残念。
白色のトラバーチンのエンタブラチュアは、早く復興するために、かなり省略して造ったのものだったのだ。
東側の列柱は黒く残って、南の通りへと続く。通りは一段低くなっていて、アポンダンツァ通同様、馬車はフォロに入れないようになっていた。
北へ続く列柱はトラバーチンに替えられたものになっている。この幅が柱廊の幅でかなり広い。
『ポンペイの遺産』は、いまも残る折れた柱の列は当時のポルティコ(歩廊)の名残で、そこでは物売りが商品を並べてひしめき合っていたという。
仕切りのない商店街のようなものだったらしい。
東側の列柱には白いところと赤いレンガの部分とがあったので、見学している時は、レンガ積みでつくられ、漆喰を塗って大理石の柱のように見せかけたものかと思っていた。後に行った秘儀荘の柱のように。
しかし、地震の後白いトラバーチンで建て替えられ、それが発掘後復元される時に足りない箇所を赤レンガで補ったらしい。
エンタブラチュアは、南側に残る凝灰岩のものと、東西の白色のトラバーチンに替えられたエンタブラチュアには違いがある。白い方は1つの石に横に溝を彫ることによってアーキトレーヴとフリーズに見せようとしている。その上、フリーズには浮彫ではなく、文字を彫って簡略化している。秘儀荘の円柱は省エネ化という説明だったが、フォロの二階建て列柱もかなりの省エネ化が測られ、完成を急いだようだ。
このアーキトレーヴは、本来南側のように、長い石を切り出して列柱に載せるものだが、東西のものは短い台形の石を上下交互に並べて繋げられている。逆さの台形の石が、上が大きく下が小さいので落ちないようになっている。それはアーチの真上の要石と同じ仕組みだ。アーチからヒントを得たのかも。
ギリシア時代は長い石を切り出してアーキトレーヴにしたが、ローマ時代になると石材の調達が困難となり、その代わりに考案されたのがアーチだったという話を読んだことがある。このように小さな部材を組み合わせたエンタブラチュアも省エネ化と言えるだろう。
エウマキアの建物は入口に大理石の浮彫がある。
『完全復元ポンペイ』は、一風かわったこの建物は、異論はあるものの、織物商や染物屋、洗濯屋などで構成される羊毛職人組合の会館とされているという。
双円柱構えの広いアプシスには大きな台座にのったリウィア像がおさめられていた。ポルティコの土台床と大理石の柱礎はほぼ完全な状態で残っているという。
奥の四角い龕に人物像(下矢印)があるが、これは半円の壁龕の奥にあるもので、エウマキア像らしい(同書による)。エウマキアは人物の名前だった。
このように、壁龕には神像が祀られていたとは限らないのがローマ時代なのだろう。
見事なアカンサス唐草が高浮彫で表されている。
続く15:ウェスパシアヌス神殿は東奥に四角く囲った祭壇がある。ここには神像が置かれていたのだろう。
その続きはTL:ラレス神殿、東奥の大きな半円の壁龕の中央に神像を祀るレンガの囲いがある。また壁龕の左右にも祭壇がある。
ラレス神殿に続くのが、前回の17:公設市場

※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)

「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」(青柳正規監修 1999年 小学館)