お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年7月19日火曜日

23 三角広場

大劇場の最上段の右端から三角広場の列柱廊に出た。列柱廊の柱頭もドーリス式なので神殿と同じ前6世紀のものだろう。
すると左右に列柱が並んでいた。ドーリス式の円柱だった。
三角広場はポンペイでもとくに魅力的な場所である。溶岩でできた尾根の上にあり、スタビアののどかな田園やサルノ渓谷はもちろんのこと、ナポリ湾まで見晴らすことができるという。

木々の向こうの3段ほどの平たい石壇がe:ドーリス式神殿。ドーリス式の柱頭がところどころ残っているのが見える。
いや、拡大して撮ってみると、柱頭ではなく柱礎のようだ。前6世紀というと、ポンペイでは最古に属すると思われるが、そのような神殿址の傍にゴミ箱を置かなくてもいいのに。
方向を変えてa:記念門へと向かう。
右の列柱の端にはエンタブラチュアが載っていた。エンタブラチュアには切れ目がなく、トリグリフが等間隔で並んでいるが、メトープに浮彫はない。
通りに面して三角広場への入口となる記念門がある。我々は反対側から見学して、記念門を出ていく。
三角広場の入口にはりっぱな記念門(プロピュライオン)がそびえ立っている。背の高い優雅なイオニア式円柱が6本も立ち並び、技巧をこらした2本の半円柱を両わきにあしらった堂々たるデザインであるという。
今では立派とはいえない門を出て振り返る。イオニア式の円柱にのったエンタブラチュアは、柱間の長さしかなく、より短い石材を並べてできあがる。門の表裏で古い時代とローマ時代のエンタブラチュアの違いを比較することができる。
また、フォロの二階建ての列柱廊では、エンタブラチュアをもっと短い台形を交互に並べ、上からの荷重で安定させている。
それがアーチになると、もっと小さな部材で、もっと少ない石やレンガで上からの荷重を両側の柱へとに分散させて、柱と柱の間に弧を描く。その頂点の要石が下側がすぼまり、上側が広くつくってあるので、下に落ちずにアーチを菱決める役目を果たす。フォロのエンタブラチュアは、この要石を応用したのだろう。
アボンダンツァ通りから劇場通りを抜けてやってくる人々はね道端に軒を連ねる家々の美しいファサードを目にし、オプス・クアドラトゥム(整層積み)のどっしりとした壁と、それをかざる片蓋柱をながめながら、やがて堂々たる門に迎えられるという趣向だという。
そのオプス・クアドラトゥムが少ししか残っていないのは残念だった。
オプス・クアドラトゥムは、平行六面体に切断したサルノ石や灰色凝灰岩のブロックを少しずつずらして積み重ねてゆく。要塞のほか、住宅のファサードにも使用され、厳粛とした雰囲気をかもしだした。つなぎのモルタルは必要ない。ポンペイで最も古い技法の一つであり、とくにサルノ石は古くから用いられたという。
前1世紀末には右端の円柱のわきに公共泉水がつくられ、そのながめも少しだけそこなわれたという。
確かに記念門の前に公共泉水をつくらなくても良かったのに。
こういう風に振り返ってみると、2時間で、大劇場・ポンペイ最古の三角広場から、フォロ・フォロの浴場、様々な家の前を通ってエルコラーノ門・墓地通を経て秘儀荘へと、2時間でよくこれだけのものを見学できたものだ。
自由行動の日に、早起きしてローマ発日帰りのポンペイツアーに参加して良かった。日本からインターネットで申し込めるのも便利だった。
しかし、次回はナポリ考古学博物館の見学も含め、じっくりとポンペイの遺跡を歩いて、ガラスモザイクの泉水堂も幾つか見てみたい。

※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)