お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年7月15日金曜日

22 大劇場

劇場広場や剣闘士の営舎の先はC:大劇場になっている。
ここは最近修復が終わって、見学ができるようになったばかりです
すごくきっちりと修復されてしまっていて、遺跡の雰囲気はない。
一番上には細い柱が並んでいます。ローマのコロッセオと同じように、船乗りたちが帆を張って日陰をつくっていました
柱のある壁面には石が横に揃って積まれている。その下の壁面の方は石の方がばらばらで、横にも縦にも揃っていない。オプス・アフリカヌム(アフリカ積み)だろうか。
『完全復元ポンペイ』は、サルノ石のブロックを間隔を置いて縦向き、横向きに並べ、間にサルノ石、溶岩石、もしくはその両方をつめてゆく。つなぎとしてわずかなモルタルが使用された。ブロックとブロックのすき間は粗石とモルタル(カエメントゥム)で表面仕上げをする。この技法がポンペイに導入されたのは前3世紀末からだった。モルタルのほとんどは、消石灰、ポラゾン、川砂でつくられ、きわめて堅牢だったという。

やっぱり石をモルタルでつないで積み上げ、それが固まったところで枠として、中にローマン・コンクリートを流し込んだのだ。
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、ローマのコンクリートがいつ、どこで最初に使われ始めたかは現在のところはっきりしない。しかしポッツォラーナを産出するカンパーニア地方で、前4世紀末から前3世紀初めにはおそらく使用されるようになったとみて間違いないという。
下から見上げるだけかと思ったら、観客席を登ることになった。
白いのは大理石の席で、ポンペイの有力者の名前が刻んでありました
修復された一般席には小さな白いものが等間隔に並んでいる。座席番号のようだ。ひょっとして、現在ここで催し物が行われるのかも。
一度外に出て右へ回り込む。
壁面の残っていないところから大劇場の観客席へ。
見下ろすと、レンガ造りの舞台が割合残っている。ローマ劇場というのは舞台の背面が複雑に造ってある。
その向こうに劇場広場の南列柱廊と屋根が見える。カサマツの向こうの建物は現在のポンペイの町。
斜めになっているのはH:記念階段。『完全復元ポンペイ』は、もともとは屋根がついていたらしい。神殿で行われる祭礼の行列もここを通ったと思われるという。
上のA:三角広場のe:ドーリス式神殿への参道だったようだ。誰かが傘を差して階段を下りているが、多分遺跡の関係者だろう。
ポンペイの神殿は祀られている神や名称が判明していると思っていたのに、この神殿はドーリス式というだけで神の名が不明らしい。
同書は、前6世紀の昔から、ギリシアもしくはエトルリア起源のドーリス式神殿が建てられていた。そのような神聖な土地だけに、アポロ神殿を中心とする町が発展しつつあった時代にも、市街とは一線を画す聖域としてあつかわれていたという。
古い時代の聖域への参道を残して劇場広場や大劇場が建てられたのだ。

※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)