お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年8月26日金曜日

1-26 アヤソフィア12 最後のモザイクはコンスタンティヌス帝とユスティニアヌス帝

西階上廊の突き当たりにある傾斜路に行くと、「登り専用」であることがわかった。どこから下りるの?北階上廊のどんつきにあるという。
それが最初からわかっていたら、先に南階上廊から見学したのに。
㉑北東のバットレスの中が下り専用の傾斜路で、上りの傾斜路よりも正方形に近かった。滑らないように溝を刻んだ石が敷きつめられていて、最後の数段が階段になっていた。
㉒北回廊に下りて、ふとオスマン朝のタイルに気がついた。中支柱のヴォールト天井はモザイクが残っているが、両壁はタイルだった。
コバルト・ブルー、トルコ石の青、緑色、赤と鮮やかなタイルだったが、オレンジ色の照明のせいで、元の色が出ない。中央にミフラーブがある。
右側には文様の異なるタイルもあった。
㉓最後に再び聖母子像を見上げる。
㉔皇帝の門の上。
1500年も人が出入りすると、大理石もこんなに磨り減ってしまう。
内ナルテクスの天井。窓際のアーチにも十字架のモザイク。
この先にミュージアム・ショップがあった。
㉕南出入口を出たところで、正面にモザイク壁画があって驚いたが、これは鏡に映ったものだった。見逃さないようにという配慮だろうか。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、「聖母子にコンスタンティノポリスの街を捧げるコンスタンティヌス帝と、アギア・ソフィア大聖堂を捧げるユスティニアヌス帝」は1000年前後の制作と考えられている。
バシリオス1世に始まるマケドニア朝の諸帝の時代(867-1056年)、ビザンティン帝国はふたたび勢力をとり戻し、古代の学芸を奨励して、ギリシア・ローマ風の自然主義的表現を再興したという。
マケドニア朝ルネサンス期のモザイクということになる。地面が3段階の緑のグラデーションで表されている。
11世紀と12世紀には当時の皇帝・皇妃が寄進したことを示すモザイクを南階上廊東壁に残しているが、このモザイク画を献納した皇帝は、コンスタンティノープルの都を造ったコンスタンティヌス帝と、現アギア・ソフィア大聖堂を創建したユスティニアヌス帝を描かせ、自らの図像も銘文も残さなかった。1000年頃といえば、バシレイオスⅡ帝の時代のことで、きっと謙虚な人だったのだろう。
このモザイクは、創建時の平面図の南入口に造られたので、この3つの交差ヴォールト天井は後世の付け足し部分になる。
白くなった箇所は雨漏りのせいなのか、かなり劣化していて見苦しい。
ガラス窓をくぐって外に出ると、モスクになってから造られた洗い場が目の前にあった。
花壇などを造って美しく整備するのも良いのだが、これでは創建時に造られた洗礼堂に近づけへんやん。
16年前は階上廊の見学がなかったので、今回は階上廊も行くこと、片隅に残ったモザイクも見逃さないことなど欲深く計画して2時間を当てていた。
さすがに集中力が欠けてきて、地上階の南側廊など省いたが、1時間50分かかった。

もっと時間にゆとりがあれば、午前と午後の2回見学してみたい。光線の問題も少しは解決するかも。

※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」(益田朋幸 2004年 山川出版社)
「ビザンティン美術への旅」(赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社)