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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年9月22日木曜日

1-42 ガラタ塔から眺めるイスタンブールの街2

上の方に右からスルタンアフメット・ジャーミイ、朝そばを通った修復中のハセキ・ヒュッレム・ハマム、アヤソフィア、トプカプ宮殿の城壁内にあるアギア・イレーネ。シルケジ駅やエミノニュ埠頭なども見えている。
スルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク Sultanahmet Çamii)は6本のミナレットが見えている。
アヤソフィア博物館。イスタンブール陥落後はモスクとなったため、4本のミナレットが立てられた。
これくらい離れると大ドームと下の窓がよく見える。
その先の緑の岬にトプカプ宮殿がある。
トプカプ宮殿はディワンの塔で見分けることができる。
『イスタンブール歴史散歩』は、1453年、メフメットⅡこの都を征服すると、まず現在イスタンブール大学があるあたりに宮殿を建てた。ビザンティンの宮殿は廃墟と化し、住める状態ではなかったのである。それから数年後、彼はビザンティウムのアクロポリスがあった丘に、この大宮殿を建てた。
宮殿のほとんどは1459年から1465年の間に、征服王(ファティフ)自身のプランで建設された。この宮殿は3回の火災に見舞われ、そのたびに改装や模様替えが行われているという。
16年前にトプカプ宮殿は見学したが、東の端までは行けなかった。いつか第4の庭から海峡を眺めてみたいなあ。
海の向こうに見える島影が並んでいる。
『イスタンブール、時はゆるやかに』は、イスタンブールからさほど遠くない沖合に浮かぶ。いくつかの島々は「皇子たちの島(プリンスィズ・アイランズ)」と呼ばれている。ビザンティン時代、帝位継承権を持たない皇子や皇女、帝位を追われた皇帝たちが、謀反を起こす気づかいのないように、これらの島々に流されたという。
スルタンアフメット・ジャーミイの向こうの浮島もその一つみたい。トルコ語ではアダラール Adalar と呼ばれる島々。
奥はマルマラ海、右は金角湾、そして左がボスポラス海峡。左側はアジア。
ボスポラス海峡を挟んでアジアとヨーロッパ。
ボスポラス第一大橋。
下を見下ろすと城壁の見張り塔が二つ残っていた。
『図説イスタンブール歴史散歩』は、ヴェネツィアに操られた第4状十字軍に占領されたコンスタンティノープルを1261年に奪回したビザンツ帝国は、ヴェネツィア牽制をかねて、その最大のライヴァル、ジェノヴァに、この地を自治居留地として与えた。ジェノヴァ人は、ビザンツ側の禁止を無視して、周囲に城壁を築いたという。
しかし、『イスタンブール歴史散歩』は、1453年のトルコ征服後は、城壁は破壊され、この地区はヨーロッパ。人たちのための区域になった。外国の商人たちは競ってここに家や店舗を持ち、西欧列強はここに豪壮な大使館を建てた。この地区は一種の租界、コミュニティとして発展していった。しかしもベイヨール地区の歴史的な建造物は、19世紀の二度の火災でほとんどなくなってしまったという。
しかし、破壊と火災を免れた城壁の名残がここにある。
見学後は 螺旋階段をぐるぐると下りてその後はエレベータで一気に地上へ。
 もう少しよく見える場所まで移動すればよかったのだが、同じ道を引き返したので、ガラタ塔の写真といえばこれだけ。
そうそう、ガラタ塔とは何か?

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『イスタンブール歴史散歩』は、巨大な円筒形の塔は1348年、度重なるビザンティンの攻撃に耐えかねたジェノア人が、自衛のために建てたものである。メフメットⅡはこの塔の高さを7mほど低くして、物見の塔にしたという。
今は低くなったのと、建物がたくさんできて、ガラタ塔からはビザンティン時代の城壁はほとんど見えなかったのが残念だった。

※参考文献
「イスタンブール、時はゆるやかに」(澁澤幸子 1994年 新潮社)
「図説イスタンブール歴史散歩」(鈴木董・大村次郷 1993年 河出書房新社)
「イスタンブール歴史散歩」(澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社)